百二十一年の春秋を経た今も尚英霊とともに生き続ける“血染めの軍旗”
はじめに
歩兵第39聯隊は、明治31年姫路)白鷺城下に創設されて以来、ほぼ半世紀にわたって、日露戦争、満州事変、支那事変、更には大東亜戦争等、幾多の戦役に従軍、戦功を立て、この間3回に
わたり感状を授与された屈指の精鋭部隊であった。特に日露戦争中、奉天近くの沙河の会戦では、三塊石山の夜襲において、安村聯隊長とともに聯隊旗手2名が相次いで戦死し、その鮮血は軍旗を紅色に染め、それ以来「血染めの軍旗」として聯隊将兵の尊崇と団結の象徴となったことである。
「この軍旗は39聯隊のみならず私たちの郷土、そして県民の誇りとして、広汎な支援協力のもと、さらに輝かしい歴史が築かれてきた。」(昭和58年・清元兵庫県議会議長談)大東亜戦争では、悲運にも敗戦となり全軍の各軍旗は奉焼されたが、当軍旗はフィリピン戦で、九死に一生を得た勇士たちが決死の護持により、奇跡的にその要部の姿を留めて本土に帰還し、現在は、「靖国神社」に大切に保管されている。
(注)沙河会戦(さか(しゃか)かいせん)は、明治37年10月からロシア陸軍が日本陸軍に対して行った反撃により始まった会戦。この戦い以降冬季に突入し、沙河の対陣と呼ばれる膠着状態に陥った。会戦の契機はロシアがロシア満州軍をアレクセイ・クロパトキンのみの指揮下であったものを、グリッペンベルクとクロパトキンの二頭体制に移行させる決定をしたことである。この決定に不満のあるクロパトキンは日本陸軍を攻撃して威信を示そうとした
10月9日にロシア軍の攻撃が始まり、それを日本陸軍が迎撃するという形で戦いが始まった。日本陸軍はロシア軍の攻撃を事前に察知したので、圧倒的な兵力差がありながらもロシア軍に対して効率的な防御を行い、大きな損害を与えた。
それから日本軍はロシア軍に対して攻撃を仕掛けたため、ロシア軍は沙河北岸に退却した。日本軍はさらに攻撃を行おうとするもロシア軍の反撃を受け、一旦は退いた。(中略)結果、日本軍はロシア軍を撃退、勝利に終わったが、兵員及び弾薬の損耗も著しく、ロシア軍に壊滅的な打撃を与えることは出来なかった。
第二部に続く
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