姫路歩兵第三十九聯隊 第八部

このガイド書にピリオドを打つ壮烈にして悲壮な戦いとして、「サラクサク峠」での戦闘の要旨を紹介してみたいと考える。

聯隊の歴史を閉じることになった「サラクサク峠」での邀撃(「迎撃」の意)


物量を誇り、最新鋭の火力、戦車、戦闘機を繰り出しても、なお米軍は、マニラ北方拠点であるサラクサクの堅陣は抜けなかった。「わが軍の前進は、わずかインチ単位に過ぎなかった。」と、米軍の師団長は嘆いて部下を激励した。それほどまでに、我が聯隊はひもじさに耐えながら、乏しい火力をもって、気力を振り絞って迎え撃った。我が軍は、無数の横穴陣地、タコツボから一歩も退かなかった。夜になると切り込みを繰り返し、昼には、米軍の火炎放射器が横穴を焼き尽くす。その繰り返しが四か月も続いた。特に、「天王山」という陣地の争奪戦は、幾度となく繰り返された。3月の8、9日の戦闘では、乾大隊の第3機関銃中隊が全滅した。

陸軍記念日の3月10日には、大夜襲を敢行して、大隊主力が敵陣に突入、全員散っていった‥。

主計も軍医も動けるものは全員参加した。第1大隊長代理の乾中尉も、「天王山」で壮烈な自刃を遂げた。

傷ついた身で、包囲され、捕虜となることを潔し、としない、壮烈な最期だった。

また、サラクサク峠での戦いでは、言語に絶する熾烈な砲爆撃、執拗な敵の陣地攻撃と我が夜襲の繰り返しの中で山頂には、腐敗した死体と、変わり果てた戦友が無数に点在し、着衣の中で白骨化した戦友も、数限りなく横たわっていた。5月になると各陣地は寸断され、補給困難な状況に至り、雨期の到来と相まって、

洞窟陣地の中や、患者収容隊の横穴に充満していた戦傷者は、陰湿な洞窟の中で、次々と倒れていった。

これらの大激戦の結果、我が第1大隊総員552名のうち、戦死者はなんと522名。結果として、生存者はわずか8名となり、ほぼ全滅状態となった。これは、聯隊史上、最大の損耗であったとともに、筆舌に語り得ぬ、最も悲惨な戦いでもあった‥。



終戦により下山、軍旗の要部持ち帰り


サラクサク峠の戦闘で、歩39聯隊・大隊の生存者は、8名のみとなり、以後、鈴木部隊長とともに行動を共にし、6月10日ごろには撃兵団司令部に編入され、サリナス・アンチポロ方面に転戦して、終戦を迎え、米軍キャンプに収容された。

その当時、加藤清敬氏の手記には、次のように記されている。


日本の敗戦、そして、停戦のニュースは大きいショックでありました。しかし、孤立無援、絶望的な酷烈悲惨な戦闘も、これで終わりか‥やれやれ、これで戦争も終わった、という心情は敗戦という苦渋のうちにも、下級幹部以下の胸中に去来したことは否めない。それは、真に偽らざる心情であり、人間の本能というものであろう。


支隊長とともに後方指揮所にあった軍旗は、菊の御紋と旗の部分の旗竿とに分解し、旗手である村上少尉の背嚢の中にしまって、旗竿は、聯隊長・永吉大佐が、杖として9月4日にナチブ山を下山した。

その後、このことを知った米軍ジョージ曹長・は、彼らに次の様に伝えた。

「米軍は、日本の軍旗には何の興味、こだわりも持ち合わせていないので、安心して持ち帰ってよい。」と、、。


バタン戦闘の要約


第14軍(本間正晴中将)は、開戦とともに、19年12月、比島の各方面に上陸し、一気にマニラを占領した。


そして、以降の第1次バタン作戦は、2月8日ころまで続いたが、敵の圧倒的な兵力と火力により、次第に、日本軍の損耗は甚大となり、戦死1,725戦傷3,049戦病15,436その他合計20,046名にも達した。

また、その後の4月からの第2次バタン作戦においても、我が軍の損害は、戦死382戦傷1,019

戦病2,550その他合計3,951名にのぼった。


なお、戦傷100に対する、戦死比率は、第1次が、56%第2次が37%であった。

ナチブ山上に慰霊碑を‥と、フィリピンにおいてはサマット山上に壮大な慰霊碑を建立し、毎年4月9日を「バタンデー」として、元米比軍戦友・遺族の慰霊祭を行っているが、我が国においては、いまだにこの種の施策がない。まことに残念なことである。


姫路歩兵第39聯隊大東亜戦争戦没者数


前述のとおり、ナチブ山において軍旗の一部を、柏木少佐が腹に巻いて持ちかえることにした。

房及び房の芯の一部、旗竿の一部は、山本、小川両少佐が、袱紗に包み、保持した。そして、各少佐は、自身が保持して、生命に賭けて各種手段を講じながら無事、故国に持ちかえることができた。帰国後は姫路「見星寺」にて奉納するも、昭和41年に、姫路駐屯地に展示館が完成したことを機に、当館に移管し長年にわたり、保管展示したが、平成10年

軍旗奉賛会を介して、靖国神社に移管、「令和」の時代を迎えた現在も、英霊と共に大切に保存されている。

(注)本ガイド書に記載した内容、写真は

その殆どを、昭和58年刊行「姫路歩兵第39聯隊」より引用した。



追録‥ある一兵士の手記より~


~昭和17年9月1日“チャムス”(満州)の街にサーカスが来る。多数の子供たちが、その小屋の前に来て、戯れるのを見て‥子供子供日本の子供満州の子供支那の子供貧しい子供‥私がお金持ちであったなら、汚れた子供はお風呂に入れてお化粧をしてお腹のすいた子供にはお腹いっぱい、ポッペタのおちそうな甘い菓子うんとご馳走してあげよう‥。義治記

手記の作者は、筆者の近隣に住まわれていた、(故)岡田義治氏(写真)である。

氏は、当地においては、今なお著名な「郷土歴史愛好家」として、その名は広く地域に知られている。氏は、昭和13年臨時召集で「姫路歩兵第39聯隊」に入隊。その後、同16年には「第46部隊」として、満州・佳木斯(チャムス)にて野戦病院等で任務を遂行した。帰国後は、地域の活性化についても、顕著な功績を残されている。

その穏やかな笑顔から窺える通り、多くの人々に愛され、また絶大なる信頼と尊敬を集め、地域の中においても、余人を以て代え難い中心的な御仁でもあったが、残念ながら、平成23年に94歳の天寿を全うされた。




編集後記

850ページに亘り、びっしりと印字された「姫路歩兵第三十九聯隊」。昭和58年に発刊されたこの書籍を手にしたのは4ケ月半前。


正直、その内容の膨大さと細部にわたり精緻に調査、記載された真に迫る文脈に驚きを禁じ得ませんでした‥。

このテーマを選んだ理由は、ただ一つ。当地方から出兵した方は、殆どが「姫路」に入隊しており、筆者と同世代の方々のご尊父を含む縁戚者で徴用された方は、数多おられると考えます。

そのご先祖様の歩んだ足跡の片鱗だけであっても、我々子孫が知り得ることは、大きな供養になると信じています。

そこで、いずれ皆様の前で歴史ガイドとして、ご紹介できれば‥そう考え作成した次第であります。

筆者の父も三十九聯隊に編入され、支那に渡った、と、母からは、それだけ聞かされました。父は、他界するまで一切、戦争の話は致しませんでした。


その父への鎮魂の気持ちも含み合わせ、氷山の一角ではありますが、編集させていただいた次第であります。現代は当時と比較にならないほど文明も発達し、人々の生活レベルも格段に向上しております。ただ、古来より終戦時まで連綿として育まれ続けてきた、

日本の誇らしい倫理観や美徳、家族の絆や、美しい日本語、地域社会の濃密な連帯は、変らずにあるのだろうか‥。

歴史を知ることは、とりもなおさず、自身を見つめ直すことと考えます。その小さな積み重ねが、やがて、より良い社会に繋がっていくのではないでしょうか。



五郎のロマンチック歴史街道

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