2020.06.27 08:52風化して久しい“海城”高砂之城。 謎に満ちた歴史秘話を追ってみる。高砂城を攻略した秀吉軍に完勝した毛利水軍であったが、不可解にも進軍もせず、また高砂に留まることもなく帰国の途に就いた…。
2020.06.07 07:28野口城落城ノ記三木城攻略の緒戦において大敗した秀吉軍は支城から順次攻め落とし、三木城を無援の孤城とすることに戦略を変更した…。 天正六年二月の毛利攻めの軍議(加古川評定)で、別所側が秀吉に反旗を翻したことが発端となり、同年三月二十九日、秀吉は、大軍を率いて三木城に攻寄った。「播州太平記」によると、その数五千余騎とある。陣は、鳥町(現三木市鳥町)に構えて、大軍で城を取り囲んだ。(三十ヶ所)一方、迎え撃つ播磨勢は、支城である野口城、神吉城、志方城に援軍の派遣を依頼し、四月四日には総勢千人にのぼる援軍が終結。翌日の五日、ひそかに忍び寄り決死の夜襲を掛けた。夜陰に紛れての急襲により、秀吉勢は瞬く間に総崩れとなり、更には、合図を受けた三木城からは約千人が討って出たため、秀吉...
2020.06.06 08:29御着城の戦い(姫路市) 中ニモ原小五郎ハ名誉ノ射手ニテ羽柴の瓢箪馬印ニ當ル矢ヲ秀吉取ラセ見給フニ原小五郎と姓名ヲ書付たる矢多数アリ寄手ノ人々其弓勢ヲ誉メニケリ…。(播磨鑑)御国野(みくにの)町御着春まだ浅き二月ではあったが、木漏れ日が暖かい昼下がり、妻と私は御着城址に立っていた。北側にそびえるのは斉藤山。真南には、秀吉が陣を張ったと言われる火山(樋山)を眺むことが出来る。
2020.06.06 08:12『志方城』その成立と崩壊のミステリー『あなおもしろ、鹿田と名付けまし』志方の地名については、神功皇后が三韓征伐に行かれた時にこの地に上陸され、今の宮山に登られ、たくさんの野鹿が遊び戯れているのをご覧になり、『あなおもしろ、鹿田と名付けまし』と賞嘆されたのに因んで鹿田と称するようになった。後に『志方』に改められたものという。これは、播磨風土記に賀古の郡(今の加古郡)の地名について、「昔、応仁天皇がきく丘の頂上に立って『このくには、丘と原野といと広くして、この丘(今の日岡)を見るに鹿児の如し』と仰ったので賀古の郡と言われるようになった」というのを始めとし、当時は、播磨一円にのみならず全国的に鹿が多数生息していたので、鹿に因んだ地名が多いのである。この記事のあと、郡誌には、『志来りし方』と、や...
2020.06.02 03:51神吉合戦ノ記 〜神吉勢二千対織田勢三万〜彼我の差は悲劇的ではあったが、神吉勢は勇猛果敢に戦い、天命としてその結末を受け入れた天正五年(1577)秀吉は、加古川・加須屋の館(加古川城)にて毛利討伐の為、播磨諸城主を集め軍議を開いたが、決裂し、三木城はじめ、神吉城を含め、播磨の諸城は毛利方に就くこととなった。ここでは、播磨の武将たちがかって経験したことがない織田側の凄まじい物量作戦により、作戦と三万という大軍勢により、いかにして神吉落城至らしめたのか、を学んでみたいと考える。
2020.05.25 05:19干殺しではなかった?三木城陥落の真偽加古川の支流である美嚢川が大きく蛇行した三木市の中心部、「上の丸公園」に三木城跡がある。羽柴秀吉の大軍を一歩も寄せ付けず、二年近くも籠城して守った天下の要塞であったが、今は本丸跡の天守台に建つ最後の城主、別所小三郎長治の辞世の歌碑が、ひっそりと往時を語りかけるだけで、遙か昔、栄枯盛衰を極めた城郭を偲ばせるものは、ほかに何もない。正に“色即是空”(形ある全てのものは、いつかは消滅し、現世から消えていく…、という仏典「般若心経」に記された人生の「無常」を意味する言葉)…夏草や兵どもが夢の跡、である。