干殺しではなかった?三木城陥落の真偽

加古川の支流である美嚢川が大きく蛇行した三木市の中心部、「上の丸公園」に三木城跡がある。

羽柴秀吉の大軍を一歩も寄せ付けず、二年近くも籠城して守った天下の要塞であったが、今は本丸跡の天守台に建つ最後の城主、別所小三郎長治の辞世の歌碑が、ひっそりと往時を語りかけるだけで、遙か昔、栄枯盛衰を極めた城郭を偲ばせるものは、ほかに何もない。


正に“色即是空”(形ある全てのものは、いつかは消滅し、現世から消えていく…、という仏典「般若心経」に記された人生の「無常」を意味する言葉)…夏草や兵どもが夢の跡、である。


三木城築城


三木城で栄え滅んだ別所氏は、播磨の守護であった赤松氏の一族である。「赤松諸家体系図(法雲寺蔵)」には、源季則の次男の頼清が加西郡別所村(加西市河内町)に住み入り、平安時代中期の永暦元年(1160)に別所城を築き、別所氏を名乗って「三木郡三木城ヲ領ス」とある。 「三木戦史」(美嚢郡史)も頼清を別所氏の祖として地の利の良い三木に築城して移ったとする。「三木市史」もほぼこの説に準じており、おそらくこの頃に三木城が築城された、と考えられている。



堅牢であった三木城


「三木戦史」によると、三木城はかなり堅牢な城郭であった、と伝えられている。以下、その全文を記す。

『三木城ハ美嚢郡三木町ノ南、上の丸の丘稜ニアリ、本丸、二の丸、新城の三部ヲ合シ、塁壁高ク立テ廻し、壁外南西北ノ三面ニ空濠(水のない堀)ヲ穿チ(堀って)此処ヨリ稍(やや)隔リタル西南ノ丘上、宮ノ上ト其の南方鷹ノ尾ニ塁ヲ築キテ、播州唯一ノ堅城トシテ名ダタルモノナリ。』

一方、浅野文庫・諸国古城ノ図(広島市立中央図書館蔵)によると、三木城城郭の規模については右図の通りである。 三木城は、丘稜の先端が突き出たところに位置し、美嚢川が自然の堀の役割を果たした他、標高50~100mの丘稜全域が城塞化された堅牢な城であった。

であった。



秀吉が大敗した別所側による夜襲(三木合戦の序章)


天正六年(1578)二月、秀吉は毛利攻めについて加古川城(加須屋ノ館)で軍議を開いた。世にいう「加古川評定」である。しかし三木城家老・別所山城守吉親(長治の叔父)は秀吉を侮り、反論、軍議は決裂した。その結果、別所側は毛利方に就くこととなり、これが播磨諸城崩壊のきっかけとなった。

天正六年(1578)三月二十九日、

秀吉は、大軍を率いて三木城に攻寄る。

「播州太平記」によると、その数五千余騎とある。陣は、鳥町(三木市鳥町)に構えて、大軍で城を取り囲んだ。(三十ヶ所)

一方、三木城は、前述の通り難攻不落の要塞であった。この城に、大将の別所長治、弟の友之、治定、叔父の吉親をはじめ、名の知れた武将が三百人、総勢で、八千五百騎が立て籠もった。

別所方は、東播の支城に連絡して挟み撃ちにする計画を立てたが、連絡する手立てがなかった。そこで、知恵のある足軽を乞食姿に仕立てて、敵陣を通り抜け、野口城、神吉城、志方城に援軍の派遣を依頼した。



天正六年四月四日、総勢千人にのぼる援軍が終結し、翌日の五日の夜には、一番手に志方の櫛橋、二番手に野口の長井、そして三番手には神吉の神吉頼定と定め、明かりもともさず、ひそかに忍び寄った。秀吉勢は、昼間の疲れと、酒により熟睡しており、そこにどっと斬りこめば、秀吉勢は瞬く間に総崩れとなった。更には、合図を受けた三木城からは約千人が討って出たため、秀吉勢は三木城との初戦において大敗を喫することとなった。

また、「播州太平記」には、面白い話があるので参考に紹介しておく。

例の別所吉親の内室が勇猛果敢に馬にまたがり、討って出たとの話である。それによると、『薄化粧で、もみの鉢巻き、桜おどしの鎧を身に付け、馬には鏡の鞍を置き、ゆらりと打ち乗って二尺七寸の大太刀を振りかざして瞬く間に七、八人を討ち取った。その雄姿に恐れて秀吉方は近寄るものもなかった』というのである…。この伝承について、地元で長年にわたり三木合戦を研究された「郷土歴史家」福本錦嶺氏(故人)が、その著書「三木合戦謎を追う」でいわく…、『播州太平記』も、江戸時代の成立であって、読み本として脚色されており、まるで現地で見てきたように伝承されており、詳細に調査した結果、このくだりについては事実ではない、としている。また、「別所一族の興亡播州太平記と三木合戦」でも同様の判断を下している。

秀吉による三木城包囲網

初戦では敗退した秀吉であったが、「平田合戦」では大勝した。その後、秀吉は、三木城周辺に蟻のはい出る隙間もないほどに陣地を築いた。「播州御征伐之事」には以下の事が記されている。

『三木城の間近五、六町(500~600m)まで付城を寄せて包囲、南の八幡山、西は平田、北は長屋、東は大塚など陣屋の間には、高さ3mの高い塀を二重に築き、その間に石を山のように積んだという。塀の前には、深い堀や高見台を設けた』とある。

さらに橋の上には番人を置き、人の通るのを監視したほか、辻ごとに関所を設けて、通行人を監視し、徹底した封鎖網を敷いたとある。


平井山合戦の記述とその真偽について


「太平記」によると、秀吉が三木城を包囲して城兵の弱るのを待つという作戦は、自軍の戦力を損なわない為の戦法であるが、三木城の城兵は、一年と十ヶ月にも及ぶ籠城とあって、その間に、別所側の夜襲、平井山本陣攻め、平田、大村坂の合戦が大きく取り上げられている。

この平井山本陣での激戦では、別所側の総勢四千二百余騎が秀吉陣所に一気に駆け上がり、本陣内を攻め入り、秀吉が逃げ回った、と書いてある。しかし、前述の福本錦嶺氏と、同氏が率いる研究会メンバーの調査によれば、平井山の本陣は広大で、また堅固な要塞は厳重であり、とても城内に入れるものではなく、このくだりについては、読み本として講談調に記されたものである、と判断している。


「播磨鑑」に見る落城の様子

「播磨鑑」は現・兵庫県加古川市米田町平津の医師・暦算家の平野庸脩(ひらのようしゅう)著による江戸時代の地誌であるが、合戦に至った経緯とその終焉について次のように記している…。(一部略)


『城主ハ、別所小三郎長治父ハ大蔵之介安治ト号ス村上源氏ノ苗裔(びょうえい・末裔の意)也。

羽柴秀吉ト確執ノコトニ及ビ、楯籠ル。一族ニハ舎弟彦之進友之、執事ニハ別所山城守吉親(賀相トイフ)…中略魚住、加古ヲ始メトシ、都合八千五百騎余。天正六年春上旬ニゾ籠リケル。故(理由)ヲ如何ニト尋ヌルニ、当国ノ守護職ガ、秀吉ヲ下シ給ヒ、毛利家追討ノ評議ヲ給ヘドモ、別所ハ当家累代ノ国主ト云ヒ秀吉ヲ謾侮(まんぶ・あなどる、の意)シ、却テ

(これにより、の意)毛利ニ心ヲ通シ秀吉ニ反逆ヲ企ツ。


長治、一族ノ諸士ニ向ヒテ曰ク、当家先祖圓心ヨリ将軍家ニ属シ、武功ヲ以ッテ重恩ヲ蒙リ。今、秀吉ノ下知(命令の意)ヲ受ケ戦場ニ進ンコト、一ツハ先祖ノ

舊功(ふんこう・これまでの功績)ヲ汚ス。之ヲ受ケ満座ノ武士一同申シケルハ、数代ニ亘り当家ノ禄ヲ喰ラヒ主君ノタメニ命ヲ惜シムベカラズ、ト申シケル。長治大イニ喜悦シ、各々心ヲ一致シテ城郭ヲ守護シケル。

斯デ(これにより、の意)秀吉ノ大将ハ、野口、志方ヲ

攻略シ三木ノ内ニ入給フ。東西二三里カ間、尺寸ノ隙間モナカリケル。斯デ、三木城ト謂フハ、前ニ大河

渺々(びょうびょう・果てしなく広い様)タリ。後ロハ高山峨々(がが・険しくそびえ立つの意)タリ。

林ニツヅキ、道狭ク巖山道狭シ。要害(要塞の意)高クソビエ立ツ。去ル程ニ寄手(よせて・攻める秀吉側)ノ大勢二重三重ニ取リ囲ミ、閧(かちどき)ヲ揚ゲニケル。城ノ内ニモ兼テヨリ設ケシ事ナレバ、門ヲ開キ切ッテ出、両方互ヒニ入乱シ、戦ヒケル。寄手ハ、一陣引ケバ、二陣ガ入リ、揉ミ立テ、揉ミ立テ攻メ掛ル。別所方ノ侍ハ、散々切ッテ廻リ、義ヲ守リ、節ヲ重ンジ、名ヲ惜シミ、命ヲ軽クシテ揉ミ立テ、揉ミ立テ死ヲ争フ。双方ノ閧(かちどき)ノ聲(声)山川万里ニ響キテ、百千ノ雷ノ集ル如ク也。

斯デ(このようにして)軍ハ日ヲ送リ、月ヲ重ネテ二年余リノ戦ヒニ、屍路川ニ満チ満チル。三木方ニモ、七十三人郎等九十六人ガ討死ス。其ノ外、雑兵八百余人ト記シニケル。サレドモ軍兵事トモセズ義ヲ重ク守ル故ニ、城中ハ堅固ナレドモ、二年余リノ戦ヒニ城中ノ粻(かて・食料)尽キテ、運命爰(えん・ここに、の意)ニ極マリタリ。大将長治、一族ノ宇野右衛門ヲ呼ビ給ヒ、汝ハ秀吉方ニ参リ、申ベキハ、我等兄弟切腹スベシ。残兵、雑兵以下、全テノ命ヲ助ケ候ラエレバ我は喜悦ス。秀吉、此由ヲ聞キ給ヒ、誠ニ神妙ト感ジ給ヒ、コレヲ了トス(了承した)。

天正八年一月十七日生年二十三。舎弟知之二十歳、其ノ外一族十八人一同腹ヲ切リ、朝夕ノ露ト果テ給フ。


自刀を以っての開城決断 その本当の理由とは


城主長治が降伏・開城を決断した、その最大の理由は何だったのか…?「豊臣秀吉百八十二合戦総覧」には次のように記されている…。『天正八年になると、城内の兵糧は食べ尽くされ、兵士たちは木の芽を食べ、松の荒皮を剥いで甘肌をなめた。犬、猫、鳥、蛇、蛙など、食べられるものは何でも食べた。中には紙を食べる者、壁土をなめて、飢えをしのぐ者、土砂を煮て飲む者まであった…。』また「別所記」には城内の凄惨な様子を、異なる表現で次のよう伝えている。

『城内ニハ、旧穀悉(しつ・ことごとく尽くす、の意)ク尽キ、既ニ餓死者数千人。初メ、糠ヤ葛(まぐさ)ヲ食シ、中此ハ、牛馬鶏犬ヲ食フ。(中略)嗚呼(ああ)痛マシキ哉。盛衰ノ世ノ中トハ云ヒ乍ラ、昨日マデハ、東播八郡ノ太守ト諸国ニ響シ御家ナレ共、聊(いささか・些細な、という意)ノ事ニヨリ軍ヲ起コシ、運命トハ云ヒ乍ラ、(中略)数年累代ノ犬鼠鶏ヤ雉(キジ)ハ申スニ及バズ馬ナゾヲ刺殺シ食トシ、僅カニ命ツナギ給フ。

寔ニ(まことに)軍卒ハ力尽キ、或ヒハ塀ノ下、狭間ノ陰ニテ伏シ倒レ餓死スル者数知不。(中略)聞人(これを聞いた人)、涙ヲ落トサヌハナカリケリ。』このように、城内の悲惨極まる状況を、克明に記している。

「播州御征伐之事」や、「別所記」また「加古川市史」にも、多少記述内容と、その濃淡は異なるが、兵糧が尽き、飢えにより多数の兵士が「干殺し」にされた凄惨な状況の下での決断であったと記されている。


『三木合戦 謎を追う』に見える”干殺し”への疑問


この「干殺し、おびただしい兵士の餓死」を目の当たりにしたことによる降伏、開城の決断について、福本氏と研究会メンバーは、著書「三木合戦謎を追う」の中で、次のように異を唱えている。

~文面通りではないが、大意としては以下の通り~

『城主長治は、若輩ではありながら名将と言われた武将であり、重臣においても、義を重んじ城主の為には、一命を賭して主を護らんとする名武将ぞろいだったと言われている。そのように、義に厚く家臣思いの長治が、餓死者が続出する状況を、放置するはずはない。また、「三木戦史」には落城間際の大手門での戦いで、別所吉親の妻が長太刀を振り回し、馬にまたがって暴れ回った、という記述もあるが、餓死者続出という状況下で、このような勇猛な振る舞いが出来るとはどう考えても、信じがたい。』


城主や重臣たちだけが飯を喰らい、兵士たちが餓死する状況を、彼らがのうのうと眺めていたとは、考えられない。高松市の「仏生山文書」によると、三木城蔵入り米は、五十万石もあって(疑問もあるが)別所氏は食料に困って降伏したのではなく、これ以上籠城しても勝ち目がないことを悟って降伏したのである。彼らは、城内で、軍策をめぐらしていたのである。五千人もの城兵が、僅かな鼠を食ったというのは、講談であって、江戸期の作り話である。このように「太平記」や「三木戦史」を含む江戸期に成立した歴史本は、殆どが講談本であって、真実を伝承する本来の歴史本ではない。』

軍師竹中半兵衛、平井にて死す(三木合戦余話)


羽柴秀吉が三木合戦で播磨に出陣したときには、世にもまれといわれた二人の軍師を平井山の本営において、周到な作戦にあたらせていた。一人はもとの小寺官兵衛で、秀吉が播磨へ一歩を印したとき、みずからの居城、姫路城本丸を提供した黒田孝高。ほかの一人は美濃 (岐阜県)出身で、織田信長のはからいによって秀吉に属し、近江長浜城などにあって主従を超えた友情に結ばれてきた竹中半兵衛重治であった。


編集後記


今回は、播磨地方を統括する三木城とあって、

収集資料も、これまでよりも多岐に亘ることを余儀なくされた。

今回の編集を終えるにあたり、改めて感じたことは、福本氏がいうように各種文献、伝記により記載内容が異なり、何が真実なのか判らない、ということである。講談調の読み本が多く歴史の真実が伝承されていない、ということなのか…。特に、「干殺し」に至るまで、城主は手をこまねいていたのか?という下りであるが、編者如きが意見を述べることは差し出がましいとは考えるが、敢えてご容赦願えれば、編者も、氏の調査結果に賛同したいと考えている。その理由は、まず、辞世の句。家臣の命に代えて…という城主としての責任と、家臣への思いやりの情、それが行間に滲み出ていると感じる。また、播磨鑑に見える、家臣の、城主に対する絶対的な信頼である。別所の軍兵は、負けを覚悟で、城主の為、また、命より名を遺す為、進んで死地に赴いた…。三木市は、そんな立派な武将、軍兵を育んだ素晴らしい土地柄である。同じ播磨人として心から誇らしい思いをかみしめ乍ら、本日、ペンを置いた次第であります…。合掌



引用及び参考文献等

1.「播磨鑑」2.「兵庫の城」3.「別所一族の興亡」4.三木市ホームページ5.「三木合戦謎を追う」6.三木合戦絵図管理者の承諾を得て掲載した。7.加古川市史8.その他

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