姫路歩兵第三十九聯隊 第3部


日露戦争勃発と遼陽会戦

日露戦争勃発と第39聯隊


日露戦争は、当時としてはまさに古今未曽有の大戦争であった。前述の沙河会戦当時、米国の有名なトリビューン紙は、「この会戦は、その兵力の莫大なる点において、おそらく世界大戦史上、最大の会戦である。」と評している。


当時、人口が四千五百万人という東洋の小国日本が、人口1億5千万人という西洋の大国、ロシアを相手にして列強も驚くほどの戦争を、なぜ起こしたのか、それは、ロシアの南下政策の実行、すなわち、日本に対する脅威に歯止めをかけざるを得なくなった、という、止むに止まれぬ事情があったからである。


日ロ交渉も行き詰まりをみせた。日本の希望は、清韓両国の独立を互いに保証して、さらに満州においては、ロシアの優位性を、韓国においては、日本の優位性を承認しあうことであったが、ロシアは、韓国内に中立地帯を設けるという、日本を拘制することに固守した。


そこで、日本は、満州内部に中立地帯を設けることを提議したが、結局は、決裂するに至ったのである。明治37年2月3日、突然、ロシアの旅順艦隊が出港して行方不明となった事実を把握した政府は、御前会議をひらき、開戦の決意が決定された。

ここにきて、両軍ともに砲門の火ぶたを切るに至った。


明治37年2月5日動員発令仁川上陸の為、神戸駅から、乗船地、宇品に向かう兵士。沿線は、”万歳”で送る市民で溢れかえった



歩兵第39聯隊の初陣と遼陽会戦


聯隊は、5月7日に姫路を出発、徒歩行軍により、8日神戸着。湊川神社に参拝の後、10日には、十数隻の輸送船に分乗して上陸地点に向かった。率いる聯隊長は、安村範雄大佐であった。

上陸後、直ちに大狐山に向い、岬巌まで前進、そこでの敵抵抗は微弱であったため、二隊のみが銃撃戦を交え、翌日には、敵は軽戦の後に退却した。



同日、39聯隊は難なく岬巌(遼寧省)を占領し、初陣を飾った。その後、8月から9月にかけて聯隊は遼陽に向かい、9月2日から敵本陣に対する攻撃を開始した。



9月3日には、39聯隊が主力となり、早暁より、敵60~70門の砲兵が一斉に39聯隊に機銃を浴びせかけてきたが、弾雨を凌いで敵の堡塁に突撃し、これを占領した。この遼陽本陣への攻撃で、39聯隊の第1大隊長、秋山芳隆少佐は、壮烈な戦死を遂げた。39聯隊は、8月25日から遼陽攻略の間、連日戦闘と行軍を続けた。昼は炎暑、夜は秋冷そして、また激しい降雨の中で、宿るに家なく、水も燃料もなく、炊飯ができず、生米をかじって行動する日が続いた。このような連日の惨列な戦闘のうちに空腹と病魔に悩まされながらも、偉大な戦果を収めた。



39聯隊は、この会戦のほか、付近で激戦を展開し、大苦闘したと、伝えられている。本会戦の結果、堅固を誇った遼陽の堡塁は、日本軍により全て陥落した。


本会戦によるロシア軍の損害は、約25,000人で、日本軍も、ほぼ同じ損害を被った。なお、当39聯隊の損害は、戦死:将校3名下士卒81名で、計84名。戦傷:将校6名下士卒:386名で計392名と記録されている。


なお、8月19日から攻撃を開始した旅順要塞攻略戦では、敵陣地は予想外に堅固で、日本軍の損害は甚大であった。この攻撃は失敗に終わり、ついに24日、攻撃中止命令を出した。この攻撃により、戦闘総員50,700名のうち、18,500名の甚大な死傷者を出すに至った。


その後、戦線は奉天に移り米国・トリビューン紙をして、“世界会戦史上最大の会戦”と言わしめた“沙河会戦”を迎えることとなる。


第四部につづく

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