満州事変の勃発 国際連盟脱退
1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、3年前の「張作霖爆殺事件」の現場から、わずか数キロの地点である。
爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している。関東軍はこれを「張学良」の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。
これがいわゆる「柳条湖(溝)事件」である。
関東軍は、満州(中国東北部)全土を占領したが、リットン調査団報告により、国際連盟は、これを認めなかった。これにより、日本は国際連盟脱退表明。 その2ヵ月後の1933年(昭和8年)5月31日の「塘沽協定」(停戦)成立に至った。これが日本と中華民国との間の武力紛争(事変)である。
満州事変における39聯隊の行動概要
昭和6年12月17日、混成第8旅団の編成が下命され、39聯隊からは第3大隊を派遣することとなった。
第3大隊は、21日に姫路駐屯地を出発した。
宇品(広島県)で乗船し、28日には、奉天に到着し、関東軍司令部の指揮下に入った。第3聯隊は、奉山線鉄道・新民~打山間、約80㎞の守備にあたることとなった。
以降、7年1月下旬までの間に数回にわたる敵襲撃を撃退した。また、奉天西南の残存匪賊討伐戦にも参戦し、功を奏した。その後、関東軍増強のため、7年4月には39聯隊主力が12日に宇品を出発、大連経由で18日にはハルピンに到着、先発の第3大隊は主力部隊に合流した。
反吉林軍掃討作戦
先に駆逐されたと思われた「反吉林軍」が東支鉄道東部線沿線に南下してきたため、この敵を討伐するため、第10師団村井支隊を「一面坡」に派遣した。
当支隊の主力である39聯隊は、4月21日にハルピンを発って、同日中に「一面坡」に進出し、翌日22日早暁には、押し寄せてくる、約1,000名の敵を撃退することに成功した。
村井部隊は、続いて「海林」方面に進出し、海林へ兵力を護送する敵の装甲列車を奪取し、その結果海林を占領した。
その後における39聯隊の戦歴と帰還
昭和7年5月12日には、「松花江」沿岸の作戦に参加したが、この作戦では、敵との戦火は交えることはなかった。以降、我が聯隊はハルピンに帰還して、同地の警備にあたることとなった。
7年7月には、聯隊主力は、東部線沿線へ再出動、警備の任務にあたった。以降は、「寧安」方面に進出、通河付近の警備にあたる。その後、各地を転戦し、昭和8年4月には、混成大隊熱河作戦参加。9年3月に、大命が下り、内地に帰還する運びとなる。
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2021.04.14 07:23