姫路歩兵第三十九聯隊 第六部

支那事変勃発


昭和12年7月7日、情勢の緊迫していた北支に、「盧溝橋事件」が起きた。

この事件の解決のために、当時の軍中央部には、積極解決派、と慎重不拡大派の二潮流があったが、全般的には政府の方針通り、拡大抑止の方策がとられた。

しかし、関東軍は、北支・外蒙工作の一挙解決を図ろうとして、この事件に積極的に関与しようとした。このようにして、軍中央部は、背面における対ソ連考慮もあって、作戦の範囲を北支に限定することとし、この事変を「北支事変」と命名した。



[付記]盧溝橋事件の発端

日本北支駐屯軍は、日常の行動を慎重にし、日中間に事を起こさぬよう配慮しつつ、その任務達成に関する教仮設敵訓練、特に、夜間訓練に努力していた。第8中隊は、7月7日午後7時30分から夜間演習を実施し、黎明突撃を演練するため、行動を開始した。

この際、「竜王廟」を背にしたのは、中国軍配備基地を背にすることにより、誤解を招くことのないようにとの配慮だった。予定通りの演練を終え、演習中止を仮設敵に報告しようとしたとき、突然に仮設敵の機銃が発射された。

当然、空砲ではあったが、その時、「竜王廟」方向から数発の銃声が聞こえ、中隊長は、実弾の飛行音を確認した。続いて、盧溝橋城付近より、十数発の銃声がとどろいた。

この間に、中隊は、兵力を集合させ、点呼をかけたところ、兵士1名が不在であることが判明した。

中隊は、直ちに聯隊長に報告。この中国兵の不法射撃、兵士1名不在という報告が、のちに事態を重大な方向に発展させる第一歩となったのである。


この発砲事件ついては、種々その原因が調査されたが、結論としては、日本軍内部に潜入していた抗日分子による陰謀説が最も有力な原因とみなされた。


その後、北支においては、7月24日「郎坊事件」が起こり日中両軍は衝突した。また、29日には、「通州事件」が起き、在留邦人223名が中国保安隊に虐殺されるという惨事があった。


支那駐屯軍は、7月28日、攻撃を開始し、短時日のうちに敵第29軍を撃退して、平津(北京・天津)地区を平定した。

8月に入ると、上海方面は、反日空気が激化、4,000名足らずの我が海軍陸戦隊に対して暴行、挑発が頻発した。海軍は、陸軍に対して出動要請を出し、8月15日、上海派遣軍(総大将は、元歩39聯隊長であった松井石根大将)が結成、派遣されることとなった。(次ページ作戦経過図参照)



これにより、北支事変から、

「支那事変」と呼称を改めた。

対支全面戦争へ拡大


10月初旬ごろ、北支方面の作戦は、順調に進んだが、上海方面においては、中国軍の頑強な抵抗に遭って、多くの損害を出し、膠着状態となっていた。

この間、当初の不拡大方針が、余儀なく戦線拡大となり、ついに、対支全面戦争に移ることとなった。その後、12月2日には、松井石根中支方面軍司令官は、軍司令官の職を解かれ、新たに朝香中将が南京を攻略することとなった。

松井石根大将は、戦後の東京裁判において、「南京虐殺事件」の責任を問われ、刑死した。

松井司令官は、首都南京は、国際都市でもあるので、攻勢の進出制限を決めたり、さらに、攻略戦直前には、統制線を引き、彼我の混戦を防ぎ、さらに流血戦を拡大しないよう、中国側に降伏を勧告するなど、被害の極小化に努めたが、中国軍は、これに応ぜず、ついに攻撃は12月10日に開始された。

中国軍は、高い城壁を砦として頑強に抵抗し、日本軍の損害も甚大であった。中国軍は、唯一の退路である、下関方面から揚子江対岸閲兵する松井石根大将に逃げようとしたが、待ち構えていた日本軍の射撃を受け、その殆どが殲滅された。

このようにして、この戦いにおいて日本軍に殲滅された中国軍は、おそらく、何万人に上ったものと思われる。

しかし、これは、軍同士の戦闘による結果である。しかるに、中国軍は、市民殺害23万人、第16師団によるもの14万人、其の他6万人計43万人と発表し、東京裁判においてもこの数字を強調した。これは、中国軍全体の戦力から考えても、明らかに誇張された数字であった。

支那事変における39聯隊の行動概要


盧溝橋事件勃発日の数日後には、動員命令準備の内示があり、事件発生20日後に、動員命令が下った。39聯隊は、昭和12年8月5日には、沼田多稼蔵第21代聯隊長より、軍装検査、聯隊長訓示があった。

訓示の内容は、次の通りであった。

1.「万事戦勝をもって目標とする。戦闘にあたっては、徹底的に勝利を博すること。」

2.「難事をなすことを楽しみとせよ。進んで困苦欠乏に堪えること」

3.「人馬の衛生に留意せよ。いやしくも不注意の病気に罹り、落後してはならない。」以上


[手記] 初めて見る支那大陸~第4中隊仁木小隊長手記から~

上陸用舟艇により上陸点に接近したが視界に入ってきた中国大陸は、白砂青松、風光明媚とは、およそかけ離れた別天地の感じであった。海は黄色く濁り、海岸線には樹木もなく、灰色の水平線上に灰色の「太沽」の部落が見えてきた。上陸して初めて土製の民家を見て、

生活様式の差異を知り、電灯も井戸もなく激しい雷雨のため一歩戸外に出れば、水田のような道を通り、水汲みに行かねばならず、命令の伝達、連絡にも一苦労であった。




その後、滄州付近の戦闘、10月には黄河北岸掃討作戦、更には13年3月の南部作戦を経て、いよいよ4月から3ヶ月間にわたり、これまでで最大の激戦となった「徐州会戦」を迎えることとなる。



姫路歩兵第三十九聯隊 第七部に続く。

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