姫路歩兵第三十九聯隊 第七部

徐州会戦 大閘(たいこう)の戦闘


攻撃部隊である第1大隊は、5月15日午前9時ごろ「大閘」に向かい前進した。

約300の敵は、我が右翼第3中隊を包囲するように攻勢に転じ、第2中隊もまた優勢な敵の攻撃を受け、ともに苦境に陥った。大大砲小隊・聯隊砲中隊が追及して、「大閘」に対し、午後8時30分、敵前200メートルにおいて砲兵の支援射撃を行い、一挙突撃、悪戦苦闘の上、午後9時40分、完全に「大閘」部落を占領した。敵は微山湖岸の各部落に一連の強固な陣地を設けて警戒部隊を配置し「大閘」は後方主力抵抗線であったため、敵はしばしば攻勢に出た。


この戦闘において、第3中隊長伊藤中尉は、胸部貫通の銃弾を浴びて戦死した。また、第2中隊長代理・山田少尉は重傷を負った。


わが聯隊の損害‥

戦死:第3中隊長伊藤中尉以下22名

負傷:第2中隊長代理山田少尉以下78名。



[手記]死の手に握る銃耳蓋~第1機関銃隊吉田上等兵美談集より~


第1機関銃中隊第1小隊は、「大閘」に向かい進撃した。戦場は見渡す限りに麦畑で、
攻めるに難く、守るに易く我が部隊は、敵火にさらされながら、敵前概ね100m.肉迫した。
敵の抵抗は頑強で、我が攻撃部隊は死傷者続出、小隊は、わずか数名にまで減少した。
全員、銃側墓場の精神で敵陣地に突撃した。この時、吉田上等兵は、すでに身に数発の銃弾を浴びつつも、銃把を握り、紅に染まりながら、射手としてその任務に邁進した。やがて、精根尽き、死期が迫り、仮死状態となった。夕暮れ迫るころ、「大閘」の堅陣も、我が手に落ち、収容隊が淡い月影の下、下銃側に行ったが、すでに機関銃手はすべて戦死し、一衛生兵のみが残っていた。

「誰か、銃機の分解を知らんか!」の叫び声が通じたのか、すでに死んだはずの吉田上等兵の右手が徐々に動き、銃耳蓋をしっかりと握った。「吉田!吉田!」と叫べど答えず、銃耳蓋を握りしめたまま、壮烈な戦死を遂げた‥。



その後、5月19日からは徐州西南方面への追撃作戦中に、連隊長の交代があった。

沼田多稼蔵連隊長は、第11軍参謀副長に任命された。沼田聯隊長は、人情に厚く、部下思いであった。

戦闘においては沈着剛胆、常に勝利に導く指揮ぶりであった。天津に上陸して以来、苦楽を共にしてきた将兵一堂にとっては、断腸の思いであった‥。新たに聯隊長となったのは、太田米雄大佐であった。



徐州作戦完了後、7月からは、「漢口作戦」が始まったが、この作戦では、マラリア感染による病死が戦死者数を上回る悲惨な状況であった。食料との闘い、戦場は肥沃な土地柄で、当初は、食料は現場調達と決められていたが、村人は全員逃避して、徹底的に清野され、現地調達ができなかった。

糖分や塩分などの補給などはもちろんなく、慰問袋のサトウキビが、その補給源となった。食塩は、村民にとっては想像以上の貴重品で、これを発見するのは、容易なことではなかった。「腹が減っては、戦は出来ぬ」というが、食べなくても進撃せざるを得なかったの

が、この「漢口作戦」であった。



[手記] 軍司令官より感状を授与されて~第8中隊長田中中尉の従軍日記から~


思えば、神戸港を出帆して、北支、山東、徐州、漢口と大作戦に参加し、1年4ヵ月。
我が聯隊は、多大なる戦果を挙げた。北支における沼沢、泥濘の中での悪戦苦闘、大黄河の渡河、特に漢口作戦は、文字通り、軍の先鋒となって終始したのである。(中略)これら聯隊の偉業は、散華された諸々の英霊の礎に立って建てられたものである。
亡き戦友は苛烈な環境の中において祖国愛と郷土愛に燃えつつ散華された。

今回拝受した軍司令官による「感状」は今日の将兵をして一様に、亡き戦友の遺志を、これからの作戦に具現すべく誓い合わせしめたのである。


歩39聯隊は、13年12月からは北支転進が始まり、14年1月からは、聯隊は、北支の治安警備にあたることとなり、同年10月11日より順次「青島」を出発し、内地へ凱旋帰還を果たすこととなった。

その後列車輸送で、18日から20日にかけて広島から姫路に帰還。熱烈な歓迎を受けたが、

戦場で倒れた戦友とその家族を思い至ると、帰還将兵は等しく断腸の思いに駆られたのである‥。

千五百七柱の英霊


39聯隊は、支那大陸に転戦すること2年4ヵ月、その間3代の聯隊長(沼田大佐・太田大佐・原田大佐)および8人の大隊長(山本、矢木、浅野、安永、富沢、高井、安武、堀尾、大隊長)統率のもと、

血染めの軍旗を陣頭に、武漢奥地まで進撃し、軍旗に決別すること五度、悪戦苦闘を克服して常に偉功を立て、漢口作戦においては、感状を授与され、有終の美を飾ることができた。この間における戦死者は、1,507名に及び、富沢大隊長以下中、小隊長の戦死者57名の多きを数える。

戦傷者は、戦死者の3倍に達した。さらに病魔にかかり言語に絶する苦難に堪えた者は、数千に及ぶであろう‥。かくして、支那事変における犠牲者はまことに甚大なものであった。

英霊は静かに靖国神社に鎮まり、聯隊の偉功、不滅の戦史は白鷺城とともにのちの世に語り継がれることを祈るのみである‥。



[備考]支那事変・加古、印南郡(現2市2町)出身者の戦死者数:226名

~支那事変当時の第10師団副官高井武夫少佐保存の「歩兵第39聯隊戦没者名簿(第1号)に

基づいて、編集委員が作成したものから当地出身者数を、編者が集計したものである。~



この章を閉じるにあたり、最後に、一従軍兵の「体験記」を以下に紹介したいと考える‥。



体験記~さる大戦を省みて~兵庫県中西文次氏記


私は、この大戦において支那事変を通じて六ヵ年半従軍し、幸いなことに九死に一生を得て生還した一人であります。私は、昭和12年7月ごろ日支事変勃発とともに召集され、姫路磯谷隊前野部隊本部に編入され、歓呼の声に送られて出征致しました。我が部落からは、私のほか5名の友人と計6名が動員され、

その友人5名は、すべて「歩兵第39聯隊(沼田部隊)で、日支事変中勇名を轟かせた部隊でありました。

両隊ともに、攻撃部隊であり、立ち向かうところ、彼我ともに犠牲者は多く、多大な戦死者が出ました。

現在の中国からすれば、侵略行為かもしれませんが、皇軍の名の下には絶対服命、完遂せねばならなかったのです。特に激烈だった「徐州会戦」では、わずか一週間足らずでありましたが、突撃隊の沼田部隊は、隊員の半数以上を損耗しております。特攻決死隊の自爆的勇士は別として、殆どは、命を惜しみ、無駄に捨てたくありませんが、軍規には逆らうことができません。戦勝を誓いながら肉親妻子のことを思いながら、

その名を叫んで悲壮な最期を遂げられたのが真の姿です。私は将校当番兵であり、自分の本務は果たしましたが戦闘部隊でなかったため、難を免れたのです。


引き上げ途中、私は熱病に冒されて入院し、少し遅れて一人で復員しました。

そして懐かしの我が家にも寂しく裏道から人知れず帰り、出迎えもなく「今帰ったよ。」と家族に告げた状況でした。このことは、今でも忘れられません。一生で一番うれしいはずの元気な凱旋なのに、郷土同時出征者5名の全員が徐州戦前後に戦死したのです。この歓喜に満ちる生還も、自責の念に堪えられず、遺族の方々に再会するとき、申し訳ない心情が長く消えませんでした。

戦争は悲惨極まりないことです。当方はもちろん、相手方にも罪なき人命と計り知れない物的損害を与えております。二度とこのような戦争を起こさぬよう、子々孫々に申し送り、戦没されました御英霊の安からぬことを祈っております。~一部略〜


バタン、ナチブ山での激戦 

四方10倍の敵に囲まれた壮絶な戦闘 その栄光の歴史を閉じた最後の特攻攻撃


大東亜戦争の末期、昭和19年8月に、39聯隊に対し、それまで駐屯していた、満州・チャムスから、フィリピン、マニラへの転戦命令が下った。同月5日、満州・チャムスを後にし、マニラに上陸、その後、永吉聯隊長をはじめとした我が39聯隊は、バタン半島へ進出、翌20年2月から、長年にわたる軍歴を閉じる最後の悲壮なる激戦を迎えることとなった。その当時の永吉部隊総兵力は、総勢3,800名であった。




姫路歩兵第三十九聯隊 第八部につづく


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