俳諧宗匠・栗本青蘿 その数奇な運命と栄光の歴史

~加古川・光念寺と青蘿~

【青蘿武士から俳諧宗匠へ】

藩を追われた青蘿は諸国遍歴の後に加古川に落ちつき晩年には、俳諧の最高位である“宗匠”となった。

与謝蕪村、久村暁台、三浦樗良、高桑蘭更、掘麦水そして

栗本(くりのもと)青蘿(せいら)。この六人を「芭門中興俳諧六家」と称した。中でも青蘿は、門弟三千人といわれ、全国にその名をとどろかせた。彼とその妻は今、寺家町・光念寺境内で悠久の眠りに就いている…。


青年期(激動期)


松岡青蘿(本名鍋五郎。別号は栗本・三眺庵・幽松庵など)は、元文五年(1740)前橋藩酒井氏(寛永二年姫路藩に移封)の藩士・松岡門太夫の三男として生まれ、同藩士武沢喜太夫の養子となり、13歳にして俳諧を志す。(当時の俳号は山李)しかし20歳の時、不身持により姫路に移され、その三年後には、改心の余地なしとして、永のいとまを命じられ、義母と共に姫路を去る。

「ありたけは鳴いて渡らん川千鳥」青蘿は義母を加古川に残し諸国吟遊の旅に出る。その二年後には義母が死去。寺家町・光念寺に埋葬される。(戒名は「妙蓮」。光念寺過去帳には“武沢”と見える。)

壮年期(円熟期)


明和4年(1767)青蘿28歳。この頃加古川に定着する。寺家町・大庄屋中谷慶太郎の援助により、寺家町に三眺庵(後の栗本庵)を結ぶ。「後の世をおもはるるとき峰の松」後年、幽松庵に移ったとされるが、年代不詳。俳諧を本格的に学ぶようになったのは明和5年の芭蕉75回忌からであるという…。この年、青蘿は明石・人丸山(柿本神社)に芭蕉の「蛸壷塚」を建立。句碑は「蛸壷やはかなき夢を夏の月(芭蕉)」月照寺にて一日千句の俳諧を開催、参加者は二千人に達するほどの大盛会であった。またこの年に東洲和尚より「青蘿」の称号を与えられる。


老境期(大成期)と終焉

青蘿の名声を決定的にしたのは、寛政二年(1790・51歳)秋10月16日二条家の「紅葉の御会」に招かれ、暁台・欄更に次いで俳人最高の栄誉とされる“中興宗匠”の職務を授与されたことによるものであろう。


最高の栄達を手にしたその翌年、寛政三年六月十七日、青蘿は腫れものが原因でこの世を去る。享年52歳。

彼の俳諧は、農民的で生活に密着した気どり気のない温かさをもった俳句である。そのような業績に対して、鶴林寺や淡路・岩上神社などにも門人により句碑が建立されている。



「青蘿居士終焉記」にみる青蘿と弟子たち


青蘿の病状悪化玉屑かけつける…。

皐月半よりひと日は快く一日はこころよからず項に腫物発し水無月に至りていよいよ気力衰ふ

青蘿の遺言

死ははたとせのむかし究明しければ生死到来今更驚くにあらず、唯此道の真に行人少なきを嘆くなりと命を軽し道を重し玉ふことこころ根にしみて涙眦に溢る。

青蘿の死去

青蘿は、いよいよ臨終となり玉屑に筆を持たせて辞世の句を残す。死因となった腫れ物は大きな瓜ほどになっていた。員武は師の肖像を描いた。寛政三年(1791)六月十七日ついに青蘿死去。享年五十二歳の大往生であった…。

青蘿の送葬

暑い盛りなので早速に埋葬し、後に葬儀を執り行う。二百以上の門弟が集まった。喪主は青蘿を継いで栗の本二世となる玉屑と、青蘿の弟子で明石・長楽寺の住職五齢。取り仕切りは五栗(加古川・中谷家の者)

おのぶ

青蘿は妻帯者であった。文化九年(1812)七月二十日、六十歳で亡くなった「おのぶ」の墓碑は、光念寺墓地の青蘿墓石の後手に小さく隠れるように建っている…。「過去帳」によると、「釈尼清信武沢三里坊妻玉田氏おのぶ六十」と見えるが出身地や青蘿との婚姻事情は不明である…。「過去帳」に見える「おのぶ」の年から逆算すると、宝暦二年(1752)に生まれたことになる。現在の志方町野尻の出身と考えられるが現地での確たる証拠は、見当たらない。

光念寺縁起と宝物当寺は、真宗の寺院で、慶長元年(1596)、篠原村西本願寺末善照寺の住僧・西賢が創めた所で、加古郡東本願寺派のはじめである。西賢の俗姓は本多氏、奥州白河の出身である。ご本尊は「木造阿弥陀如来立像」宝物としては、蓮如上人絵像・聖徳太子絵像などがある。



引用及び参考文献等

①「郷土の石彫(43号)」

加古川史学会岡田功氏執筆

②「加古川光念寺と栗本青蘿」

(光念寺発行)

③「俳聖芭蕉を仰いだ人々」

~近世播磨の俳諧~

④加古川市史



平成25年1月7日

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