五百年余りに亘り春秋を織り成した宿駅
弘安2年(1322)3月12日、隠岐の島に流される後醍醐天皇が『賀古川宿』に泊まる。(常住寺または播磨守護所と思われる。)
一日遅れで京を出発して讃岐に流される尊澄法(そんちょうほう)親王(後醍醐天皇の皇子)が「この川の東、野口と云う処」に来られたことを父でもある天皇に伝令を使い伝えたところ、天皇も親王に会いたいと切望したが、護送の武士の許可が得られず、親王とは会うことが出来なかった…との記録がある。この時の情景を『増鏡』(ますかがみ・1300年代の南北朝時代に成立した歴史物語)には次のように記している。
『宮むなしく返給御心の中堪え難く乱れまさるべしさらなることなれど、かばかりのことだに御心に任せずなりぬる世の中いへばえに辛く恨めしからぬ人なし』
この「増鏡」こそが、日本で初めて加古川が紹介された文献である。
中世における宿駅としての発展と繁栄
古代の律令制度下(7世紀後半~10世紀・奈良平安時代)の賀古驛は教信寺近くの野口にあったが、中世(鎌倉~室町時代)以降、加古川の渡河地点にあたる加古川村(印南郡)と寺家町村(加古郡)の二つで加古川宿が形成され、既にこの頃より宿駅として繁栄していた。
宿駅の機能は、宿泊施設と驛、即ち「人馬継立所」であるが、主は、継立所であった。近世初期(1600年の関ヶ原から1641年の鎖国制度完成まで)加古川宿では『伝馬』(当時は馬借といわれた。)25頭・人足25名は常置されていた。
⬆️「加古川村絵図」~称名寺蔵~
原図は、寛永元年(江戸時代・1624)加古川村庄屋藤大夫作であるが、この絵図は、嘉永3年(1850)に書き写されたもの。
宿場規模と職業分布
宿場町の中心は隣接する寺家村であったが、『加古川村絵図』では、分岸寺川より西側の『加古川村』しか描かれていない。
本図によると、各家々の大きさは、間口4間~13間、大部分は4~5間である。奥行きは4間~25間、大部分は15~20間と見え、145軒の屋敷と人名が確認できる。職業の分布は不明であるが、ちなみに、宝暦7年(1757)の『加古川村明細帳』によると、当時、177軒の内、105名が百姓。
水呑み(貧農)が72名となっており、内30名は屋敷持ちで身分的には水呑みであっても、職業的には街道に面した町屋の商工業者(町人)であったと思われる。そこで、次頁では、宝暦7年当時の職業別従事者の一覧を示すとともに、(慶応元年」(1865)
の『加古川宿絵図』から判断し)寛永期の寺家町村の軒数を類推してみることとする。
旅籠屋×3 渡守×6 医師×4 木綿商×12 米屋×5 茶屋×3 古手商(今のリサイクルショップ)×1 材木屋×3 綿繰屋(綿から種を取り除く)×26 大工×2 樽屋×16 饅頭屋×2 豆腐屋×2 ~宝暦7年(1757)の『加古川村明細書』より~
前述にように、寛永期の寺家町村については、その様子をうかがえる絵図はないが、このころ、既に加古川宿の中心であったことから、慶応元年(1865)の『加古川宿絵図』では加古川村118軒、寺家町村200軒となっている。
これから推察すると、寛永期には、寺家町村約300軒、加古川宿全体で450軒の町屋が軒を連らねていたものと思われる。
『本陣』・『人馬継役所』等の設置
「加古川宿御茶屋屋敷由来書」によると『御茶屋屋敷』設置は、本多忠政(1575~1631)の代といわれ、姫路藩主の休憩所兼藩の出先機関としての役割を担っていた。~現在の「陣屋」さんの東側あたり~
また、参勤交代が制度的に定着した慶長12年(1635)には参勤交代する大名の宿舎として『本陣』が設けられた。場所は、現在の玉岡宅を中心とした範囲である。
また、宝永4年(1707)には、『人馬継役所』が、現・陣屋さんの東側に設置。この頃にはすでに新馬50頭が追加配備され、これまでの25頭(加古川4頭、寺家村21頭)を加え、75頭が常時配備されていた。なお、天和元年(1681)に加古川で大火があり、『御茶屋屋敷』が焼失、その代替施設として、宝暦2年(1752)には脇本陣(樹悳堂)が新設された。
『本陣』と大庄屋中谷家
本陣は、大庄屋である中谷家がつとめていた。資料的に確認できる宿泊者は、寛延2年(1749)姫路藩全藩一揆の現地調査に派遣された大坂町奉行与力、八田五郎左衛門の日記で、一行は本陣寺家町・中谷与惣左衛門宅に宿泊したとの記述がある。「行程記」(1751~63作成)には、本陣中谷与三左衛門と記されている。
南には「光念寺」が隣接。敷地面積は、間口30間、奥行き28間と広大であったと伝えられる。中谷家は、三木城に仕えていた岡本清茂が三木城落城の後、浪人し、その子岡本与惣左衛門清久が姓を中谷と改め、加古川駅に屋敷を構えたのが初代であるといわれている。
いつから本陣になったかは不明であるが、その建設年代が記録されていないところから、新たに築造されたのではなく、中谷家そのものを「本陣」として機能させたと考えられる。なお、宿泊費であるが、天保7年(1836)の中谷与惣左衛門の宿泊依頼に対する請書によると、上士は300文、中士は200文、下士は170文との記録がある。(当時の1文は現在の貨幣価値で約16円)
木綿商人・綿繰り商人の成長
宝暦7年(1757)の『加川村明細帳』によると、加古川市域の農村では、綿作は、最も重要な商品作物であり、木綿織物は農間の副業の代表であったが、加古川宿はその流通拠点になっていた。
●木綿商人12人の活動は不詳であるが、おそらく木綿仲買か、仲買人が木綿を買い取って、姫路の城下や大阪に荷送る木綿問屋であったと思われる。
●綿繰屋26人は、実の綿を、綿繰器にかけて、繰り綿と綿実に分ける加工業者である。もっとも、26人で加古川全域をカバーできるはずがないので、大部分は、自宅で綿繰器にかけて作業を行っていたことは確かである。実際、加古川では、綿繰器の製造業も盛んで、20軒の製造業者がいたとされる。
加古川宿に立ち寄った人々
江戸時代の著名な蘭学者である「司馬江漢」が、天明8年(1788)加古川宿を訪れた。その際の日記を紹介する。「9月朔日(月初め)、天気。須磨寺あり。人丸の祠門に碑あり。これより姫路の城を過ぎて、『加子川』といふを渡り、左に入る。田舎道なり…。』と述べている。
また文化元年(1804)には、江戸の有名な戯作者((江戸時代の通俗的な小説家)「大田南畝」が訪れており、8月19日の宿泊の様子が「革令紀行」に記されている。
『20日寅の刻(午前4時頃)ばかりに、燈火かかげて出立した。加古川の河原広くして、東海道の天竜河に似たり。神爪村を過ぎて石橋を渡り、魚川村の人家をこえ田間をこえ、また人家あり。土塀をかこひ、あるは土もて塗りこめたる家なり。』
幕末の世情と宿駅の終焉
天保期から幕末にかけての農村地帯の困窮は加古川宿にも及んだ。嘉永5年(1852)には、宿主6名の連名で姫路藩に嘆願書を出している。この頃には諸大名が自前の人馬を引き連れて来る割合が減り、宿継の人馬利用が多くなった。そのため、驛所の入用がかさみ、必要な人馬調達が困難になっていた。
慶応元年(1865)には幕府による第2次長州征伐で加古川宿を利用したため、一時的には活況を呈したが、明治5年、太政官布告により宿駅制度が廃止。これにより、500年余に亘り歴史を紡いだ加古川宿もその終焉を迎えることとなった。
中谷家の棟札
明治期にご先祖様が中谷家より購入した家屋を解体(昭和53年)した際に見つかったという「棟札」を見せていただくために、旧知の玉岡家を訪れた。(昨年2月)それによると、『居宅再建安政二年(1855)中谷與惣左衛門宗郷代。棟梁当所、三木屋善兵衛』とある。すこぶる珍しい品でもあるため、ここで紹介しておく。
引用文献 引用文献 等
●加古川市史第2巻
●東播磨の歴史3近世
●寺家町 玉岡路三郎氏
● 助 言
三浦 孝一 氏
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