勉学と商工の発展を祈願するお社 栗津神社

加古川町栗津 栗津神社

当神社の『権禰宜(ごんねぎ)』を務める田中氏の言葉を思い浮かべながら、ペダルは、粟津神社へと向かう。ススキの穂先に季節感を感じるにはまだ早いが、今夜は中秋の名月…。

見上げる青空のふもと、その先に、涼風にたなびく“クスノキの杜”が目に入る。目指す『粟津(あわづ)神社』である。境内に入ると、数組の母子が、黄色い歓声を上げ、神社内に飛び交うアキアカネを追いながらゆったりとした昼下がりの時間を楽しんでいた…。


神社の成り立ち


田中氏によれば、元来、『粟津神社』は、地域での呼称(俗称)であり正式名称としては『天満神社』

氏神は菅原道真である。北野天満宮より分霊を受けたと伝承されているが、正式な記録はない…。

一方、『鳩里村実記』によると、元和(げんな)元年(1615・徳川家光の時代)創建とされている。その昔、道真公が大宰府に左遷途中、この地に立ち寄り、集落住民の発展、五穀豊穣、学問の徳を授けたことにより、集落の守護神として村民の手で建てられた、と伝えられている。



加古川戒神社


大正14年(1925)出雲の国・美穂神社より加古川の商業地である寺家町の『出雲大社教会』内に分霊を受けたのが、始まりである。

その後、境内が狭くなったため昭和34年(1958)1月、粟津神社内に移った。

当時は、多数の寺家町商店主で構成する『崇敬会』(10日会)が、毎月10日に戎神社にお参りしていたが、会員の高齢化とともに先細りの傾向を辿った。

当神社では、毎年正月9日(宵戎)10日(本戎)、11日(残り福)には、境内一円が大変な活気で包まれている。(『鳩里実記』並びに田中氏談)



栗津神社の狛犬

平安時代には木彫りが主流。石造の狛犬は、鎌倉時代になってからのものである。

播磨の国では、江戸時代から石造が始まり、この一対の狛犬は、その製作年代が古く、播磨の国では4番、東播磨では3番、加古川では2番目に古い遺品といわれる。

また、そのしっぽの紋様に特徴があり、その尾紋の中央に大きな左巻きの渦を表し上部には、菊の花びらのような尾毛が配されている。このような尾紋は、近隣では見当たらず、極めて珍しい狛犬といえよう。

(第9回『史跡てくてく』三浦孝一氏より抜粋・絵も同)



播磨国風土記に見る消えた地名『あはは里』と”栗津”の関連


『播磨風土記』(以下同)によると、『鴨波(あはは)里』という地名は、奈良時代初期に生まれ、同中期まで続いた。

平城京から出土された木簡によれば、“淡葉里(あはは里)”からの京への供物は、天平3年(731)から天平8年(736)までのものが多く、その中に「蛸六斤太の重さで」とあり、海浜地区が含まれていたことを示している。

播磨町沖は、古来より蛸の産地であったことから、あはは里は、おおざっぱに言って播磨町から平岡町を経て稲美町六分一(ろくぶいち)辺りまでを指すと類推されている。


一方、現在の“粟津”は、当時、粟の産地であったことから、その地名が付いた、とされる仮説があるが、本来、粟は、湿地帯(当時の粟津もまた湿地帯)では育たず、温暖で乾燥した地に産出される植物であることから、粟津が鴨波里に含まれていたとは、言い難いと考える。

他方、『賀古郡』の四つの里、即ち、鴨波里・望理(まがり)里・長田里・驛家里の内、粟津が、長田里に属していたことから、

当地方が鴨波里であったと仮定するには無理があろう。

以上を考え合わせると、粟の産地であったことから“粟津”となったという説には頷き難い。

従って、もう一方の結論は、粟津の地名が、どのように成立したのかは、今もって不明のままである、ということである。

『播磨の国風土記の謎に迫る』より



高松稲荷神社



編集後記

今回の取材にあたっては、粟津神社・権禰宜(宮司の補佐役)田中純子氏、また、当会顧問である、三浦孝一氏に多大なご協力を戴きました。ここに厚く感謝し、お礼申し上げます。




引用文献その他

1.田中純子氏からの聴取内容

2.『鳩里村実記』より一部引用

3.『第9回・史跡てくてく』より一部引用(播磨の歴史を語る会会長:三浦孝一氏)

4.『播磨の国風土記の謎に迫る』より一部引用

(元播磨町考古館館長田井恭一氏著)

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