編者 まえがき
“原爆投下は全く正当なものだ、と大半のアメリカ人が答えている。
しかも、日本本土に侵攻していたら、失われたであろう非常に多くの、それも100万人の命が、原爆投下によって回避できた、ということ“。
…70年に亘りこのような定説が“真実”となり、殆んど誰も異論を唱え者はいなかった。
しかし、いま、その「真実」に隠された驚愕の実態が白日の下にさらされることとなった。
本歴史ガイド書は、以下記載内容の随所に注記したとおり、主として「NHKスペシャル」放送内容及び、編者が探し当てたアメリカ歴史家による著作を引用、NHKスペシャル放映内容の信ぴょう性を更に裏付けたいという意図もあり、両面より「71年目の真実」に迫るべく編集した。その結果、編者が考えた通り、NHK検証結果は、奇しくも米歴史家が自信をもって説いた内容を、明確に立証する結果となった。
それは、25年前に米歴史家の多くが結論付けた内容が、米軍のトップや、大多数の米国民が信じていた(いようとしていた)こととは、まったくの正反対であった、という大きな乖離を生じていたことを明らかにしたこと、そして、それは同時に、どのようにして、その乖離が生じてしまったのか‥という大きな疑問が湧いてくるのである。
※本ページの以下文章は「NHKスペシャル『決断なき原爆投下~米大統領71年目の真実~ より引用(2016年 8月 6日(土) 午後 9時 00 分~ 9時 54 分)
「原爆投下は戦争を早く終わらせ、数百万の米兵の命を救うため、2発が必要だとしてトルーマンが決断した」。
アメリカでは原爆投下は、大統領が明確な意思のもとに決断した“意義ある作戦だった”という捉え方が今も一般的だ。
その定説が今、歴史家たちによって見直されようとしている。
アメリカではこれまで軍の責任を問うような研究は、退役軍人らの反発を受けるため、歴史家たちが避けてきたが、多くが世を去る中、検証が不十分だった軍内部の資料や、政権との親書が解析され、意思決定をめぐる新事実が次々と明らかになっている。
最新の研究からは、原爆投下を巡る決断は、終始、軍の主導で進められ、トルーマン大統領は、それに追随していく他なかったこと、そして、広島・長崎の「市街地」への投下には気付いていなかった可能性が浮かび上がっている。
それにも関わらず大統領は、戦後しばらくたってから、原爆投下を「必要だと考え自らが指示した」とアナウンスしていたのだ。
今回、NHKでは投下作戦に加わった10人を超える元軍人の証言、原爆開発の指揮官・陸軍グローブズ将軍らの肉声を録音したテープを相次いで発見した。
そして、証言を裏付けるため、軍の内部資料や、各地に散逸していた政権中枢の極秘文書を読み解いた。
「トルーマン大統領は、実は何も決断していなかった…」
アメリカを代表する歴史家の多くがいま口を揃えて声にし始めた新事実。71年目の夏、その検証と共に独自取材によって21万人の命を奪い去った原爆投下の知られざる真実に迫る。
決断なき原爆投下 ~米大統領 71年目の真実 を解説する前に…
24年前における、米側歴史家の(当時の)見解を、参考として下記に引用し、紹介する。
本ページは以下文献の序章より引用(4ページ目並びに本書末尾「トルーマン末裔の証言」も同著より引用。)ガーアルペロビッツ 著作 「原爆投下決断の内幕(上)(下)」(1995(平成7年)-8-6初版刊行) ※ ガーアルペロビッツ… 1936年生まれで、ウィスコンシン大学(歴史学)卒業。国務省特別補佐官、87年より政策研究所長などを歴任。
(1)指摘メモより…
原爆使用決定に関わる謎は数多くあるが、なかでも興味深いのは、第二次大戦の二人の最高司令官に関する者だろう。
① ウイリアム・レイヒ海軍大将は、大戦終了から数年後に、次のように公言している。
私の意見では、広島と長崎に対して、この残忍な兵器を使用したことは、対日戦争で、なんの重要な助けにもならなかった。日本はすでに打ちのめされおり、降伏寸前だった。 あれを最初に使いうことによって、我々は、暗黒時代の野蛮人並みの倫理基準を選んだことになった。女、子供までも殺すようでは、戦争に勝利したとは、言えない。
② 連合軍最高司令官であった、ドワイト・D・アイゼンハワーは、こう述べている。
日本の敗色は濃厚で、原爆の使用は全く不要であったという信念を持っていた。
第2に、アメリカ人を救うために、もはや不要となった兵器を使用することによって、
世界の世論に大きな波紋を投げかけることは避けるべきであった。
日本は、あの時、すでに、面目をつぶさない形で降伏しようとしている、と、私は考えていた。
③ さらに、1945年7月8日の「米英合同情報委員会」では、次のように結論づけている。
日本の人口のかなりのぶぶんが、もはや、完全な軍事的敗北は避けられない、と断言していい。
海上封鎖も効果を上げているし、戦略爆撃によって何百万人もの人が焼きだされている。
日本の主要市街地の25~50%が破壊されており、そうした認識は、今後ますます一般的になるはずだ。
(2)ここで、大きな疑問がわいてくる。
すなわち、軍のトップが考えていたこと、そして今や多くの歴史家が結論をだしたことと、
今なお、大多数のアメリカ人が、依然として原爆投下の必要性を認めている事実。
“原爆投下は全く正当なものだと、大半のアメリカ人が答えている。
しかも、日本本土に侵攻していたら、失われたであろう非常に多くの、それも100万人の命が、原爆投下によって回避できた、ということ“。
…なぜ、このような大きなかい離が生じてしまったのか…?
さらに、もうひとつ、米ABCテレビの報道番組「ナイトライン」が、広島原爆投下の40周年の特
別番組を放送(1985年・昭和60年)した時の事である。
テッド・コペルほどの教養のある記者が、次のように述べている。
『日本で起きたことは…悲劇であった…しかし、日米決戦の最後の局面で展開されることになっていた場合には、ほぼ間違いなく、もっと大きな悲劇となっていたことだろう。』
実際の所、上陸侵攻を行うための原爆投下は必要ではなく、多数の命を救う方法として唯一の方法であった、という事は、全くの神話でしかない。
結論的に言えば、大衆が国家により意図的に歪曲された事実を信じ込まされた、と言う他はない…。
そうだとすれば、それはどのようにして行われたのか…?
⬆️報道写真家ジョー・オダネル撮影「焼き場に立つ少年」(1945年長崎の爆心地にて)
『佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。』
「(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]を引用
「これほど残酷な人災があるだろうか。これは人類に対する重罪と言える」(ジョー・オダネル)
撮影したのはアメリカ人カメラマン、ジョー・オダネル。去年(2007)8月9日、亡くなった。占領軍として原爆投下後の長崎に入り、その破壊力を記録するため写真を撮影する一方で、軍に隠れ内密に自分のカメラでおよそ30枚の写真を記録した。
帰国後、被爆者の記憶に悩まされ、悲劇を忘れ去ろうと全てのネガを自宅屋根裏部屋のトランクの中に閉じこめ、43年間封印してしまう。
しかし晩年になって原爆の悲劇を訴え母国アメリカの告発に踏み切っていく。原爆投下を信じる周囲から非難の声を浴びながら、85歳の生涯を閉じた。
『誤解しないでほしい。私はアメリカ人だ。
アメリカを愛している国のために戦った。しかし母国の過ちをなかったことにできなかった。退役軍人は私のことを理解してくれないだろう。私は死の灰の上を歩きこの目で惨状を見たのだ。確かに日本軍は中国や韓国に対してひどいことをしたしかしあの小さな子どもたちが何かしただろうか?戦争に勝つために本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか1945年あの原爆はやはり間違っていたそれは100年たっても間違いであり続ける。絶対に間違っている絶対に歴史は繰り返すというが繰り返してはいけない歴史もあるはずだ』
―lJoe O’Donnell(ジョー・オダネル)―
ジョー・オダネルは任務を終えて帰国後、 写真をトランクに入れて封印します。
幸せな家庭を持ちました。そして、忘れることにつとめました。
しかし、ある教会のキリスト像を見て、目覚めます。
打ちひしがれた姿を表したキリスト像の体中に、 被爆者の写真が貼り付けられていたのです。
ジョー・オダネルは、それを見てショックを受けます。 その時からトランクを開けて、行動が始まったのです。講演会を開いたり、本の出版も試みたりします。
しかし、彼の活動に対して、アメリカ社会の視線は厳しかったのでした。
たくさんの非難の投書があり、妻からも理解されず離婚され、孤立無援になります。
そして、爆心地に行ったこともあって、体中にガンができます。 それでも、めげずに活動されます。
そんな中、ジョー・オダネルの娘が一通だけ味方してくれている投書があることを伝えます。
「原爆が正しいと言っている人々は、 図書館で世界の歴史をもっと勉強してから意見を述べるべきだ。」
と、書かれていました。
それはなんと、当時23歳だった、ジョー・オダネルの息子タイグさんが書いたものだったのです。
この場面では、僕は止めどもなく涙が溢れて、どうしようもなかったです。
泣けて、泣けて、ぼろぼろだったです。
妻でさえ離れて行ったのに、味方をしてくれる人がいる、 それもジョー・オダネルの息子~!息子さんは、身近で父の行動の正しさを感じたのでしょう。
それは、それは、感動的なことでした。そして、 ジョー・オダネルは、去年(2007年)に亡くなりました。 今、意志を引き継いで行動しているのは、息子のタイグさんです。
テレビでは、長崎を訪れ、父の軌跡を追いかける場面もありました。 ジョー・オダネルの反戦・反核の運動は、途切れることなく続いています。
決断なき原爆投下 ~米大統領 71年目の真実~|NHKスペシャル
以下、放送されたナレーションの、ほぼ全文に近い部分を引用した。(NHK関連事業局様とは、調整済み‥2020-5-26)
2016年5月、アメリカの現職大統領が初めて原爆が投下された広島を訪れました。大統領から謝罪の言葉はありませんでした。
1945年8月6日、アメリカは広島に原子爆弾を投下しました。当時の大統領ハリー・トルーマンはアメリカの全国民に向けラジオ演説でこう語りました。
「戦争を早く終わらせ多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した。皆さんも同意してくれると思う。」
多くの命を救うために決断したと正当性を主張したトルーマンの決断は、今に至るまでアメリカ社会で原爆投下の大義とされてきました。
ところが、トルーマンは原爆投下直後に深い後悔の念を抱いていたことが分かってきました。さらに、トルーマンが原爆投下に対して明確な決断をしていなかったという新たな事実も明らかになったのです。
アメリカでは毎年、各地で退役軍人をたたえるパレードが行われています。オバマ大統領が広島を訪問した今年は原爆投下が改めて大きな話題となりました。
多くの日本人が亡くなりましたが、何千人ものアメリカ兵が救われました。トルーマン大統領は正しい決断をしたのです。(退役軍人)
今生きているのは原爆のおかげです。原爆が戦争を終わらせたおかげで日本の子どもたちも死なずにすんだはずです(退役軍人)
「トルーマンは多くの命を救うために原爆投下を決断した」アメリカではこの大義が今でも市民に根強く受け入れられています。ところが、戦後71年のあいだ信じられてきたこの定説を根本から揺るがす事実が明らかになりました。
軍の施設に重要な資料が眠っていたのです。空軍士官学校の図書館の書庫に原爆計画の全てを知る人物のインタビューテープが未公開のまま保管されていました。原爆計画の責任者をつとめていたレスリー・グローブス准将へのインタビューです。
大統領は市民の上に原爆を落とすという軍の作戦を止められなかった。いったん始めた計画を止められるわけがない。(レスリー・グローブズ准将)
当時、ルーズベルト大統領が極秘に始めた原爆開発が「マンハッタン計画」です。
1942年9月、グローブスはその責任者に抜擢されました。全米屈指の科学者を結集し、研究施設や工場を建設。22億ドルもの国家予算をつぎ込み世界初の原爆の完成を目指しました。
ところが1945年4月、原爆の完成を待たずにルーズベルト大統領が急死。
その直後に大統領に就任したのが当時、副大統領だったハリー・トルーマンでした。ルーズベルトから引き継ぎもないまま突然巨大国家プロジェクトの最高責任者となったのです。グローブスが就任当初のトルーマンについて語っていました。
トルーマンは原爆計画について何も知らず大統領になった。
そんな人が原爆投下を判断するという恐ろしい立場に立たされた。
実は、政権と軍の間で知られざる攻防がありました。攻防の始まりはトルーマンが大統領に就任した13日後、大統領執務室でのことでした。
この日、グローブスはトルーマンに原爆計画の進捗状況について初めて説明し、計画の続行を認めてもらおうと訪れていました。これまで原爆をどこに落とすかなど、詳細は報告されていませんでした。
アメリカでは、選挙で国民に選ばれた大統領が最高司令官として軍を統制する文民統制という仕組みがあります。重要な軍の決定事項は大統領に報告し、必ず承認を得ることになっていました。
この時、グローブスは24ページの報告書を持参。報告書には原爆の仕組みや核燃料の種類、予算などが簡潔に書かれていました。原爆開発が成功すれば戦争に勝利するための決定的な兵器になると強調していました。
しかし、大統領の反応は意外なものでした。
『大統領は報告書を読むのは嫌いだと言った。原爆開発の規模を考えると特に長いとは思えなかったが、彼にとっては長かったようだ。』
(レスリー・グローブス准将)
トルーマンはこの報告書の詳細を知ろうとはしなかったのです。この時、グローブスは計画の続行が承認されたと考えたと言います。
実は、すでにグローブスは軍の内部で原爆投下計画を極秘に作成していました。
最初の原爆は7月に準備。もう一つは8月1日頃に準備。1945年の暮れまでに、さらに17発つくる。(資料より)
グローブスは原爆の大量投下まで計画していたのです。トルーマンは軍の狙いに気づくことなく、計画を黙認する形となったのです。
『私の肩にアメリカのトップとしての重圧がのし掛かってきた。そもそも私は戦争がどう進んでいるのか聞かされていないし外交にまだ自信がない。軍が私をどう見ているのか心配だ。』(トルーマンの大統領就任当日の日記より)
この頃、ヨーロッパではナチスドイツが降伏寸前で、太平洋戦争でも日本を追い詰め戦争をどう終わらせていくのか舵取りが求められていました。
さらに、戦後の国際秩序を決めるソ連などとの熾烈な駆け引きがトルーマンの肩にのしかかっていたのです。
大統領から原爆計画の承認を得たと考えたグローブスは、最初の面会から2日後、計画を次の段階に進めました。原爆を日本のどこに投下するのかを話し合う目標検討委員会の議事録を見ていくと、軍が何を狙って原爆を落とそうとしていたのかが分かってきました。
グローブスが集めたのは軍人や科学者たち。この場にトルーマン大統領や側近は参加していませんでした。はじめに議論されたのは原爆をいつ投下すべきかです。
『日本の6月は梅雨にあたり最悪だ。7月はまだましだが8月になって良くなる。9月になるとまた悪くなる。 』(気象の専門家ランズバーグ博士)
8月の投下が決まると目標地点について物理学者が見解を述べていました。
『人口が集中する地域で、直径が5キロ以上の広さがある都市にすべきだ。それも8月まで空襲を受けず破壊されていない都市が良い。』
(物理学者スターンズ博士)
狙いは最大の破壊効果を得ることでした。選ばれたのは東京湾から佐世保までの17か所。その中で広島と京都が有力候補にあがっていきました。
広島には広い平地があり、まわりが山に囲まれているため爆風の収束作用が強まり大きな効果があげられる。 (物理学者スターンズ博士)
京都は住民の知的レベルが高い。この兵器の意義を正しく認識するだろう。
2つの都市のうちグローブスが推したのは京都でした。
京都は外せなかった。最初の原爆は破壊効果が隅々まで行き渡る都市に落としたかった。
(グローブス准将のインタビューより)
1945年5月30日、グローブスはトルーマンの側近の部屋に呼ばれました。陸軍長官のヘンリー・スティムソンです。
『スティムソンの部屋を訪ねると「投下目標の候補は決まったか」と聞いてきた。「ちょうど決まったところです」と答えた。「どこが候補になったか」と聞かれ都市の名前を伝えた。すると「京都は認めない」と言われた。』
(グローブス准将のインタビューより)
なぜスティムソンは京都への原爆投下に反対したのでしょうか?
『この戦争を遂行するにあたって気がかりなことがある。アメリカがヒトラーをしのぐ残虐行為をしたという汚名を着せられはしないかということだ。』
(スティムソンの日記より)
スティムソンは、かつて京都を2度訪ねたことがあると言います。原爆を投下すれば、おびただしい数の市民が犠牲になると知っていました。
スティムソンはこの頃激しさを増していた日本への空襲が国際社会が非難する無差別爆撃にあたるのではと危惧していました。
これ以上、アメリカのイメージを悪化させたくなかったのです。
一方、グローブスは諦めていませんでした。スティムソンとの面会から1か月後、京都に軍事施設があるという報告書を作成したのです。
京都駅や絹織物の糸を作る紡績工場を軍事施設として報告していました。
『「京都は他の軍事目標と何ら変わりません」とスティムソンに伝えたところ「京都への原爆投下は軍事的な意義がない」と認めてくれなかった。認めてもらうため彼のもとに6回以上通った。』
(グローブス准将のインタビューより)
京都への投下は国益を損なうと考えていたスティムソン。グローブスの提案を認めようとはしませんでした。
1945年7月16日、ニューメキシコ州で世界初の原爆実験が成功。原爆の実践での投下が現実のものとなったのです。
一方、日本ではすでに多くの都市が空襲で焼け野原となり降伏は間近とみられていました。グローブスは戦争が終わる前に原爆を使わなければならないと考えました。
『原爆が完成しているのに使わなければ、議会で厳しい追及を受けることになる。』
(グローブス准将のインタビューより)
22億ドルの国家予算をつぎ込んだ原爆計画。責任者として効果を証明しなければならなかったのです。
原爆実験から5日後、スティムソンに部下から緊急の電報が届きました。
『軍人たちはあなたのお気に入りの都市、京都を1発目の投下目標とする意向のようです。 』
(スティムソンの補佐官からの電報)
軍は京都への原爆投下をまだあきらめていませんでした。3日後、スティムソンはトルーマンに報告。京都を外すよう求めました。
『私は原爆の投下は、あくまでも軍事施設に限るということでスティムソンと話した。決して女性や子供をターゲットにすることがないようにと言った。 』
(トルーマンの日記 7月25日)
トルーマンは市民の上への原爆投下に反対していたのです。ところが、このあと大統領の意思とは全く異なる方へと事態は進んでいきました。
トルーマンのもとに軍から届いた新たな投下目標を記した報告書の最初にあげられていたのは広島でした。
34万人が暮らしていた広島。市内には日本軍の司令部が置かれていました。
一方で、西洋の文化を一早く取り入れた活気ある市民の暮らしがありました。ところが、報告書には「広島は軍事都市だ」と強調されていました。
『報告書は広島が軍事都市だと伝わるよう巧みに書かれていました。目標選定を行っていたグローブスたちが意図的にだまそうとしていたのです。』
(カリフォルニア大学ショーン・マローイ准教授)
『軍は原爆によって一般市民を攻撃することはないと見せかけたのです。
トルーマンは広島に原爆を投下しても一般市民の犠牲はほとんどないと思い込んでしまいました。』
(スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授)
結局、トルーマンが投下目標から広島を外すことはありませんでした。
1945年7月25日、グローブスが起草した原爆投下指令書が発令されました。
最初の原爆を広島、小倉、新潟、長崎のうちのひとつに投下せよ。2発目以降は準備ができ次第投下せよ。
この原爆投下指令書をトルーマンが承認した事実を示す記録は見つかっていません。
原爆は大統領の明確な決断がないまま投下されることになったのです。
人類初の大量殺戮兵器の使用は、軍の主導で進められていきました。
原爆投下の前線基地となったのが太平洋に浮かぶテニアン島です。グローブスは日本への空襲の拠点となっていたテニアン島に、原爆投下の特殊部隊を集結させました。509混成群団です。全米各地から選抜された搭乗員で構成された爆撃部隊です。
広島への投下作戦に参加した一人、レイ・ギャラガーの証言から作戦の狙いが見えてきました。
『司令官から目標はヒロシマと言われた。町を徹底的に破壊しろと命じられた。』
(レイ・ギャラガー)
目標とされたのは相生橋。相生橋を目標にしたのは破壊効果を最大にするためでした。
『目標に正確に投下せよと命じられ緊張した。その後、食べ物の味もわからなくなった。』 (レイ・ギャラガー)
1945年8月6日、午前1時45分、部隊はテニアン島を離陸。そして8時15分、広島に原爆が投下されました。
『二度と見たくない光景だった。申し訳ないが地上の人々に心を向けることはなかった。私たちは運べと命じられたものを運んだだけだ。作戦は完全に成功した。 』
(レイ・ギャラガー)
この時、トルーマンは大西洋の船の上にいました。戦後処理を話し合う、ポツダム会談の帰り道でした。
原爆投下の一報を受けたトルーマンは、船の中で演説を収録しました。あくまでも軍事目標に落としたと強調していました。
先ほどアメリカ軍は日本の軍事拠点ヒロシマに1発の爆弾を投下した。原子爆弾がこの戦争を引き起こした敵の上に解き放たれたのだ。
このとき、軍の思惑には気づいていなかったとみられています。一方、ワシントンで報告を受けたグローブスは、原爆を開発した科学者に電話し「君たちを誇りに思う」とねぎらいました。
政権と軍の思惑がかけ離れたまま投下された原爆。トルーマンが認識の誤りに気付いたのは、ワシントンに戻った直後でした。その時のことをがスティムソンの日記に克明に記されています。
『8月8日の午前10時45分、私は大統領を訪ねた。そして広島の被害をとらえた写真を見せた。 』
(スティムソンの日記 8月8日)
その時見せたとされる写真は空から撮影した原爆投下直後の広島です。直径5キロの市街地がことごとく破壊されていました。これを見せながら、広島の被害について説明したスティムソン。その時トルーマンが発した言葉も記されていました。
「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある」
軍の狙いを見抜けなかった大統領。明確な決断を行わなかった自らの責任に気づいたのです。
しかし、動き始めた軍の作戦は止まることなく暴走しました。
同じ日、テニアン島ではすでに2発目の原爆の準備が整っていました。
止められるのは最高司令官の大統領だけです。しかし、原爆は長崎にも投下されました。広島の写真を見た半日後のことでした。
トルーマンはこのときの心境を友人への手紙に記していました。
『日本の女性や子供たちへの慈悲の思いは私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している。 』
(トルーマンの手紙 8月9日)
8月10日、トルーマンは全閣僚を集め、これ以上の原爆投下を中止する決断を伝えました。場で「新たに10万人、特に子どもたちを殺すのは考えただけでも恐ろしい」と発言しました。
3発目の準備をしていたグローブスですが、大統領の決断には従うしかありませんでした。
『3発目の準備を中止させた。大統領の新たな命令がない限り投下はできなくなった。』(グローブス准将のインタビューより)
日本への原爆投下がようやく止まったのです。トルーマン大統領が初めて下した決断は、21万人以上の命を奪った末の遅すぎる決断でした。
大統領の明確な決断がないまま行われた原爆投下ですが、このあとトルーマンはその事実を覆い隠そうとしていきました。
長崎への原爆投下の24時間後、国民に向けたラジオ演説で用意されていた原稿にはなかった文言が加えられていました。
戦争を早く終わらせ多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した
研究者はこの言葉が、市民の上に投下した責任を追及されないよう後付けで考えられたものだと指摘します。
トルーマンは軍の最高司令官として投下の責任を感じていました。
例え非道な行為でも投下する理由があったというのは大統領にとって都合の良い理屈でした。
このとき、命を救うために原爆を使ったという物語が生まれました。世論を操作するため演出されたのです。(スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授)
8月15日、日本が降伏すると世論調査で8割のアメリカ国民が原爆投下を支持しました。原爆投下は正しい決断だったという定説が生まれたのです。
その後、原爆による被害の実態が伝わらないまま世界の核開発競争が続いていきました。
原爆投下から18年後、トルーマンは一度だけ被爆者と面会したことがあります。
このとき、トルーマンは被爆者に対し
「原爆を投下したのは日本人のためでもあった」
と説明していました。最後まで目を合わさず、面会は3分程で打ち切られました。
71年前、兵器の効果を示すため市民の頭上に落とされた原子爆弾。計画の実現だけを考えた軍の危うさを指導者は見逃しました。
事実は書き換えられ、原爆は正当化されていきました。
「NHKスペシャル」 決断なき原爆投下
トルーマン末裔の証言 (ガーアルペロビッツ 著作 「原爆投下決断の内幕(上)(下)」より引用)
トルーマンは72年に死去したが、その血を引く人物が近年、日本の被爆者と交流を続けている。クリフト・トルーマン・ダニエル、58歳。彼の母親はトルーマン元大統領の一人娘で、ダニエル自身は娘と2人の息子の父親だ。
戦後生まれのダニエル自身は、第二次大戦の「当事者」ではない。しかもアメリカでは今も原爆投下を正当化する声が根強い。にもかかわらず、彼はなぜ被爆者の体験をアメリカに伝える活動を続けているのか。
祖父が下した決断と、どう向き合ってきたのか。それを知りたくて、今月14日、シカゴにあるダニエルの自宅を訪ねた。 閑静な住宅街にあるレンガ造りの一軒家。
日本のように靴を脱いで上がったリビングで、元大統領の目鼻立ちをはっきりと受け継いだダニエルは2時間余り、片時も記者から視線をそらすことなくインタビューに答えてくれた。ダニエルの言葉を通して「謝罪」と「責任」の本質を探る――。
――あなたに対して「おじいさんの決断をどう思うか」と聞いてきたことはないのですか。
(少し声を荒らげて)ノー! 息子と私は一緒に活動してきたようなものだ。私は被爆者に向かって、原爆投下は素晴らしい考えだったと言ったりはしない。
しかし一方で、太平洋戦争を戦ったアメリカの退役軍人に対し、原爆投下が間違っていたと言うこともできない。私はその真ん中で身動きができなくなっており、息子も同じなのだと思う。
私たちにとって、あの決断が正しかったかどうかという問いは、その後に相手の立場を理解することや、何が起きたかを伝えていくことの大切さに比べれば重要ではない。
(ため息をついて)同じことを言うようだが、本当のところを知ることはできないと思う。現実として原爆は落とされたのだから。そして、戦争は終わった。仮に私の祖父が「原爆は使わない」と言っていたら、あれほど早く戦争が終結したかは分からない。おそらく、とか多分という話しかできない。
原爆が戦争終結を早めたことを示す、私がみるところ説得力のある証拠はある。
それは、その反対(原爆を使っても戦争終結の時期は変わらなかったこと)を示す証拠よりも説得力があると思う。
ただ私がこう話すときも、日本人や広島と長崎の人々への敬意を忘れているわけではない。結果をてんびんに掛ければ、原爆が戦争終結を早めたという説のほうが有力に見えると言っているだけだ。それも、本当のところは誰にも分からない。
――それでも、後から振り返って、原爆投下が正当だったか否かという議論はあるのではないでしょうか。
原爆という爆弾を使ったことを正当化できるかどうか、か。あれは戦争だった。(連合国でも枢軸国でも)人々は市民を攻撃する行為を正当化できると思っていた。当時行われたことのすべてについて、多くの「正当化」がなされた。原爆ほど残虐なものはないと言う人もいるが、残虐な行為はほかにもたくさんあった。東京大空襲で放射能の被害はなかったが、死者数は広島に匹敵する。どれも最悪の出来事であり、どれも正当化することはできない。
――広島と長崎への初訪問の前後で、原爆への見方は変わりましたか。
変わっていない。そこに行ったとき、私は原爆が戦争を終結させたか否か、正当な行為だったか否かについて語ることをやめた。
訪問の目的はただ1つ、被爆者の話を聞くことだった。亡くなった方々に敬意を表し、生存者の話を聞く。目的は癒やしと和解であり、原爆使用の是非を議論することではない。
――そもそもなぜ、2つの都市を訪れようと思ったのですか。
祖父の行いを見たからだ。祖父は1947年にメキシコを公式訪問した際、その100年前の1847年にメキシコ対アメリカの戦争(米墨戦争)で亡くなったメキシコ人士官候補生6人の墓に花輪をささげた。アメリカ人記者が祖父に
「なぜ敵をたたえるのか」と尋ねたら、祖父は「彼らに勇気があったからだ。勇気に国境は関係ない。勇気がある人なら、どこの国の人だろうがたたえるものだ」と答えた。
同じようにヒロシマとナガサキでも、苦しみに耐えて体験を語る勇気は、国とは関係なくたたえられるべきものだ。
ヒロシマとナガサキについて書き始めた私は、バランスに気を付け、米兵の体験についても語るようにしてきた。ある米海兵大尉は長崎への上陸計画に関わっていたが、計画を実行すれば日本軍の反撃に遭って仲間の多くを失うと思い悩んでいた。だから長崎に原爆が投下されて戦争が終結したとき、彼らは皆安堵した。
しかし終戦直後に長崎に入った彼らは、破壊された光景を目の当たりにして大きな心的ダメージを受け、平静ではいられなかったという。これこそが人間的な反応だと思う。生き残ったことに安堵するが、ひとたび生き延びたら、相手に何が起きたかを知り、感情移入をする。そうあるべきだと思う。
完
「終戦の詔書」(現代語訳)
朕(私、天皇)は、世界の情勢と日本の現状を深く考え、緊急の方法でこの事態を収拾しようとし、忠実なる臣民に告げる。
朕は政府に対し、「アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を伝えよ」と指示した。
そもそも日本臣民が平穏に暮らし、世界が栄え、その喜びを共有することは、歴代天皇の遺した教えで、朕も常にその考えを持ち続けてきた。アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定平和を願うからであり、他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより朕の意志ではない。だが、戦争はすでに4年も続き、我が陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの役人たちも職務に励み、一億臣民も努力し、それぞれが最善を尽くしたが、戦局は必ずしも好転せず、世界情勢もまた日本に不利である。
それのみならず、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪のない人々を殺傷し、その惨害が及ぶ範囲は測り知れない。なおも戦争を続ければ、我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。そのようなことになれば、朕はどうして我が子のような臣民を守り、歴代天皇の霊に謝罪できようか。これが、共同宣言に応じるよう政府に指示した理由である。
朕は、アジアの解放のため日本に協力した友好諸国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。日本臣民も、戦死したり、職場で殉職したり、不幸な運命で命を落とした人、またその遺族のことを考えると、悲しみで身も心も引き裂かれる思いである。
また、戦争で傷を負い、戦禍を被り、家や仕事を失った者の生活についても、とても心を痛めている。これから日本はとてつもない苦難を受けるだろう。臣民みなの気持ちも、朕はよくわかっている。しかしながら、朕は、時の運命に導かれるまま、耐え難いことにも耐え、我慢できないことも我慢して、未来のために平和を実現するため、道を開いていきたい。
朕はここに国体を護ることができ、忠実な臣民の真心に信じ、常に臣民とともにある。もし、感情のままに争いごとや問題を起こしたり、仲間同士が互いを陥れたり、時局を混乱させたりして、道を誤り、世界の信用を失うようなことになれば、それは朕が最も戒めたいことだ。国を挙げて家族のように一致団結し、この国を子孫に受け継ぎ、神国(日本)の不滅を固く信じ、国の再生と繁栄の責任は重く、その道のりは遠いことを心に留め、持てる総ての力を将来の建設に傾け、道義心を大切にし、志を固く守り国の真価を発揮し、世界の流れから遅れないよう努力しなければならない。臣民は、これが朕の意志である、とよく理解して行動することを希望する。
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