薬王山 常住寺
因みに新宮十郎行家の腰かけたる松は所謂、初代鹿児の松にて、松の高さ三丈二尺(9.7m)、太さ三丈一尺(9.4m)東西二十一間(38m)南北十八間(32m)の巨木なりしと云う。
(加古郡誌より)
加古川市誌によれば「薬王山常住寺は寺家町字山之内百七十七番の壹にあり。
本尊は薬師瑠璃光如来である。當寺は聖徳太子が開基で、後世、天台宗延暦寺に属した。七堂伽藍荘観を極め舶載寺寶はおびただしかったが、嘉禄年中加古川大洪水が出て堂塔什器は悉く流失した。康応元年(1389)足利大将軍義満がここに一泊した。
応仁の頃(1467~1468)諸城浪士が来て集ったといわれる。正保元年八月光廓和尚が中興(再建)し、改めて曹洞宗に属した。明治十二年七月二十日届出明細書には、寛永元年(1604)八月開山然室廓老の建立とあり、廓老とは光廓和尚である。
当寺縁起にいう。『抑々當寺は用明天皇の御宇聖徳太子の草創なり。本尊薬師如来脇立日光月光並びに十二神将何れも太子の御作なり。推古天皇の御宇、井堰起工の初當寺に会議し、井堰成就して不易の(不変の)良田となる。~中略~後鳥羽院の御宇(1183~1185)元暦元年(1184)新宮十郎行家在陣し、當寺の境内にて腰を掛け、詠める歌に
「けふはまた田鶴の鳴音もはるめきてかすみにけりな加古のしま松」。
後堀河院の御宇、嘉禄元年中(1225~1226)大洪水氾濫し、甍を並べし堂塔一宇も残らず流失し、異国傳來の種々寶物其の外記録御朱印御教書名画悉く漂流して底の水くずとなる中に、此の薬師如来日光月光十二神将ばかり松のこずえに留まりて光明赫赫たれば(燦然と輝く様)迎え奉りて崇敬しけるより影向の松とも名づけたり。
後土御門院の御宇、応仁年中(1467~1477)の兵乱により寺僧四方に退散し甍破れて霧不断の香を焼き、扉落ちて月常住の燈火を挑(かか)く。
(屋根瓦が壊れているため、流れ入った霧が堂内に立ち込めさながら不断の香をたいている如くである。扉も朽ち落ちているために、月光が堂内に差し込みあたかも常夜燈を掲げているようである…。)
其の頃諸方の城より落ち來りし諸士此所に集まりて住居しければ、常住寺の寺家町と名付けたり。
昭和二十六年、さらには昭和五十九年…二度にわたる寺院移転にまつわるご住職の述懐は以下の通りで、往時が偲ばれる興味深いお話であった…。
『昭和二十五年に始まった朝鮮戦争により、ニッケは更に繁忙を極め、寺家町にあった当寺敷地に「女子寮」を作りたい、と会社側より話があり、止む無く、現在の溝之口・県民局北側に移転せざるを得なくなりました。そして二代目の鹿児の松ですが、移転時には残念ながら既に枯れ果てて姿を留めていませんでしたね…。』
その後、昭和五十年代に、駅前再開発の動きがあり、当寺も立ち退きの対象になり、昭和59年に本町に移転しました。戦後、二度にわたって大きな時代の荒波(寺院移転)に呑まれてきましたが、その都度寺の総代さんや檀家さんが、この寺の為に粉骨砕身して下さり、加えて歴代の住職が無心であったこともあり、今この地で安寧の日々を過ごさせていただいております。
先人の“善根功徳”そのありがたさを、私は今、感謝の念とともに感じております…。』合掌
常住寺にて
(小川住職談)
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