2021.01.19 01:10父が他界しました。五郎のロマンチック歴史街道を読んでいてくれている皆さん、いつもありがとうございます。実はこのブログは海外に住む娘の紀子が、父・五郎の歴史資料をもとにアップデートしています。父は2017年の4月に膵臓癌摘出手術を受け、その後2018年5月腹膜に転移再発、また2020年10月警部骨部背中の骨に転移し、抗がん剤や放射線治療を受けてきました。発見当初はステージ1で、殆ど治る、との見解を受けたそうです。ですが手術時に浸潤している事がわかり、ステージ3と言われました。それ以来入退院を繰り返し、抗がん剤の副作用で意識不明になったり、東京で新しい病院にチャレンジしたりと、長く辛く続いた闘病生活でした。それも終止符を打つ事となり2021年1月18日に永眠致しました。最期...
2021.01.18 10:34姫路歩兵第三十九聯隊 第四部沙河会戦での「三塊石山」大夜襲沙河会戦での「三塊石山」大夜襲の決行~「血染めの軍旗」由縁の戦い~明治37年9月下旬ころから、ロシア軍の行動は、逐次活気を呈してきた。特に、我が第1軍の右翼方面に対する動きが活発化し、9月17日には、すでにレンネンカンプ騎兵団と、サムソノフ支隊は、本渓湖に来襲し、我が梅沢旅団との交戦が始まった。満州軍総司令部は、いよいよロシア軍が迫ってくると判断し、10月10日各軍参謀長を集め、敵の機先を制して10日を期して全軍攻勢を開始するよう命じた。39聯隊は、10月10日早朝、師団の前進部隊として玉門子北方高地付近に進出し、次いで、「三塊石山」南方の高地を占領して、師団主力の進出を援護した。
2021.01.04 05:07姫路歩兵第三十九聯隊 第3部日露戦争勃発と遼陽会戦日露戦争勃発と第39聯隊日露戦争は、当時としてはまさに古今未曽有の大戦争であった。前述の沙河会戦当時、米国の有名なトリビューン紙は、「この会戦は、その兵力の莫大なる点において、おそらく世界大戦史上、最大の会戦である。」と評している。当時、人口が四千五百万人という東洋の小国日本が、人口1億5千万人という西洋の大国、ロシアを相手にして列強も驚くほどの戦争を、なぜ起こしたのか、それは、ロシアの南下政策の実行、すなわち、日本に対する脅威に歯止めをかけざるを得なくなった、という、止むに止まれぬ事情があったからである。日ロ交渉も行き詰まりをみせた。日本の希望は、清韓両国の独立を互いに保証して、さらに満州においては、ロシアの優位性を、韓国におい...
2021.01.03 05:07姫路歩兵第三十九聯隊 第二部創設と軍旗授与第三十九聯隊の創設[軍旗授与]明治29年7月、39聯隊の位置は、姫路と定められた。この年の11月、姫路城三の丸内の歩兵第10聯隊の兵営内に歩兵第39聯隊と第1大隊本部が開設された。徴兵対象区は、神戸市、美濃郡、加古郡、明石郡、多可郡、加西郡、印南郡等1市8郡であった。軍旗の拝受は、明治31年3月24日、明治天皇より軍旗が授与された。(姫路は、遠隔地の為、直接ではなく、統率系統により授与された。)
2021.01.02 04:49姫路歩兵第三十九聯隊 第一部 百二十一年の春秋を経た今も尚英霊とともに生き続ける“血染めの軍旗”はじめに歩兵第39聯隊は、明治31年姫路)白鷺城下に創設されて以来、ほぼ半世紀にわたって、日露戦争、満州事変、支那事変、更には大東亜戦争等、幾多の戦役に従軍、戦功を立て、この間3回にわたり感状を授与された屈指の精鋭部隊であった。特に日露戦争中、奉天近くの沙河の会戦では、三塊石山の夜襲において、安村聯隊長とともに聯隊旗手2名が相次いで戦死し、その鮮血は軍旗を紅色に染め、それ以来「血染めの軍旗」として聯隊将兵の尊崇と団結の象徴となったことである。
2021.01.01 04:09維新列伝 激動の時代を 駆け抜けた風雲児・鳥尾小弥太(とりおこやた)子爵にまで上り詰めた小弥太は、ある日、父の面影を偲ぶため、加古川・光念寺に墓参した。 父は、加古川の菊屋という旅館で志半ばで逝った。父の最後を看取ったという、今は年老いた当時の女将に会い臨終の様子をつまびらかに聞くことが出来た。「あぁ、あなたがご子息でしたか! お父様はお亡くなりになる間際に、このような言葉を遺されました…。“他には何も思い残すことはないが、江戸に残してきた息子のことだけが気がかりじゃ。”と…。」 これを聞いた小弥太は、大粒の涙を流したと言われる。彼の胸に去来した熱き思い、それはなにか…。 おそらく一瞬、彼は小弥太から、幼名の一之助に戻った。そして、幼き日の父の背中のぬくもりを思い出し、自身の死後は、永遠に父の背中で眠りたい、そう思った...