2021.01.01 04:09維新列伝 激動の時代を 駆け抜けた風雲児・鳥尾小弥太(とりおこやた)子爵にまで上り詰めた小弥太は、ある日、父の面影を偲ぶため、加古川・光念寺に墓参した。 父は、加古川の菊屋という旅館で志半ばで逝った。父の最後を看取ったという、今は年老いた当時の女将に会い臨終の様子をつまびらかに聞くことが出来た。「あぁ、あなたがご子息でしたか! お父様はお亡くなりになる間際に、このような言葉を遺されました…。“他には何も思い残すことはないが、江戸に残してきた息子のことだけが気がかりじゃ。”と…。」 これを聞いた小弥太は、大粒の涙を流したと言われる。彼の胸に去来した熱き思い、それはなにか…。 おそらく一瞬、彼は小弥太から、幼名の一之助に戻った。そして、幼き日の父の背中のぬくもりを思い出し、自身の死後は、永遠に父の背中で眠りたい、そう思った...
2020.12.31 07:30平野庸脩 四十数年をかけて、播州をくまなく調査し、地詩『播磨鑑』を大成した、加古川が生んだ稀代の偉人 「播磨鑑」は、江戸時代に平野庸脩が著した播磨国の一大地詩である。庸脩は播磨国印南郡平津村(現在の加古川市米田町平津)の人で、名は「庸脩」(ヨウシュウまたは、ツネナガ)といい、通称「才一郎」、「才市郎」、また「佐一郎」ともある。「歴暢」また、「露竹」、「風帆堂」と称した。父母や彼自身の生没年は詳らかではないが、医を業としながら、他の学問も好み、数学、暦術(太陽・月・星などの動きを測って、暦をつくる方法)を学び、旧史を好み、詩歌も詠じた。四十数年をかけて、播州をくまなく調査し、「播磨鑑」を大成し、宝暦12年(1762)には、姫路藩主・酒井忠恭に、これを献上した。
2020.11.04 01:07『播磨鑑』(はりまかがみ)平野庸脩 四十数年をかけて、播州をくまなく調査し、地詩『播磨鑑』を大成した、加古川が生んだ稀代の偉人、平野庸脩「播磨鑑」は、江戸時代に平野庸脩が著した播磨国の一大地詩である。庸脩は播磨国印南郡平津村(現在の加古川市米田町平津)の人で、名は「庸脩」(ヨウシュウまたは、ツネナガ)といい、通称「才一郎」、「才市郎」、また「佐一郎」ともある。「歴暢」また、「露竹」、「風帆堂」と称した。父母や彼自身の生没年は詳らかではないが、医を業としながら、他の学問も好み、数学、暦術(太陽・月・星などの動きを測って、暦をつくる方法)を学び、旧史を好み、詩歌も詠じた。四十数年をかけて、播州をくまなく調査し、「播磨鑑」を大成し、宝暦12年(1762)には、姫路藩主・酒井忠恭に、これを献上...
2020.08.31 08:27稀代の文楽三味線弾き「豊澤團平」その芸道と愛の軌跡 茜はまたまた驚いて、ちょっと使っただけの一の糸をなぜ捨てるのか?と徳兵衛に訊ねる。「一の糸は、いじったらすぐに替えないかんのや。三の糸が切れたら二の糸で代わって弾くことが出来る。二の糸が切れても一の糸で二の音を出せる。そやけども、一の糸が切れた時には三味線はその場で舌を噛んで死ななならんのや…。」(有吉佐和子「一の糸」より)