四十数年をかけて、播州をくまなく調査し、地詩『播磨鑑』を大成した、加古川が生んだ稀代の偉人
「播磨鑑」は、江戸時代に平野庸脩が著した播磨国の一大地詩である。
庸脩は播磨国印南郡平津村(現在の加古川市米田町平津)の人で、
名は「庸脩」(ヨウシュウまたは、ツネナガ)といい、通称「才一郎」、「才市郎」、また「佐一郎」ともある。「歴暢」また、「露竹」、「風帆堂」と称した。父母や彼自身の生没年は詳らかではないが、医を業としながら、他の学問も好み、数学、暦術(太陽・月・星などの動きを測って、暦をつくる方法)を学び、旧史を好み、詩歌も詠じた。四十数年をかけて、播州をくまなく調査し、「播磨鑑」を大成し、宝暦12年(1762)には、姫路藩主・酒井忠恭に、これを献上した。
「播磨鑑」には、加古川・寺家町の清田藍卿をはじめ、江戸時代の著名な文人が、庸脩の偉功を讃える序文を巻頭に寄稿している。
庸脩は、その生年、没年は不明であるが、90歳以上の長寿であった考えられている。
十八巻の大作・「播磨鑑」とは
「播磨鑑」は、前述のとおり、庸脩が四十数年の長きにわたって完成させた地詩であるが、その内容は、次のとおり多岐にわたって調査、記述されている。
まず内容であるが、神社・仏閣・名所旧跡・人物・風俗・慣習ならびに、地域の土産や名物・和歌などである。その対象地域は、飾磨郡・明石郡・加古郡・印南郡・三木郡・加東郡・加西郡・宍粟郡・佐用郡・揖東郡・揖西郡・赤穂郡等、播磨地方17地域ごとに1巻ずつ記述されている。(主巻を含め、全18巻)
それまで、播磨地方の地誌としては、奈良時代に撰ばれた「播磨風土記」、また室町時代初期の「峰相記」などがあるが、詳しいものはなかった。
そこで、庸脩は、その欠陥を補おうとして、「播磨鑑」を以て、当代の「風土記」たらしめようとしたのである。
また、庸脩が、参考引用とした古文書としては、日本書紀、源氏物語、信長記、太閤記、万葉集、古今集や、論語、孟子なども含め、60種類にも
のぼり、極めて広範多岐・詳細に調査おり、このことからも半生を費やした大事業であったことは、万人が認めるところである。
庸脩が、いつ起稿したかは詳らかでないが、経過年数について、自筆で宝暦12年(1761)とあるのを見ると、おそらくこの年に完成したものであろうと推察されており、この時、すでに庸脩は、80歳を超えていたものと考えられている。(庸脩筆の「天満大在天神」という書幅に、「平野養甫八十翁書」とある。)
庸脩の出身について
その本姓は、詳らかではないが、古老らの伝えるところによると、先祖は、もともと、三木城主・別所長治の幕下で、天正8年に三木城が陥落した際に西井ノ口村に来て、平津に住み着いたということである。父母の名も明らかになっていないが、庸脩が「平野」を称したことからみると、平野氏は、おそらく先祖から称したものであろうと考えられる。
庸脩の後裔は、(昭和50年5月15日発行の「播磨鑑」によれば)今なお、平津にあって、当主・平野明氏は、医学博士で、同地の「共立会病院」理事長をされている。平野氏によると、同家は、庸修没後一時衰微し、古書や記録書なども散逸し、同家には、数学免許状が遺っているにすぎない、とのことである。
没年・墓碑の存在は今なお不明
庸修の筆跡は、宝暦12年から11年後の、安永2年9月に記された文書にも遺っていることから、この頃には、まだ生存していたと思われ、とすれば、ゆうに90歳はこえていたものと考えられる。
位牌、過去帳などを調査するに、安永時代のものとしては、ただ1枚のみあって、「妙法恵照院宗本信士・安永5年正月18日」と、両面に書いてあり、おそらくこれが、庸修の位牌ではないかと推察されている。
墓碑については、もとは平野家の墓もあったということなので、平津の共同墓地を調べたが、庸修とおぼしき墓は見つからなかった。平野博士の言では、「古い墓も、この共同墓地にあったが、加古川の洪水で流出してしまったものではないかと思います。」とのことであった。
筆者も、本年6月に友人・児嶋氏から庸修の末裔と思われる方が勤務する場所を教えて戴くことが出来、早速訪ねてみたところ、分家の方で、その方のお話によると、「参考になる資料はなく、原本は誰かに貸したが、帰ってこなかった。本家は姫路で病院を経営しており、もともとは、現在の共立会病院の駐車場の場所にありました。」とのことであった。従って、いつ、どこで没したのかは、依然として謎のままであり、後年の調査を待つしかない‥
以上
引用文献・写真等1.「播磨鑑」(昭和50年5月15日刊行)における橋本政次氏著の巻頭文書2.「加古川の文人展」(加古川市制50周年記念特別展)編集・発行:加古川市総合文化センター3.ご協力いただいた方々1)平津)平野氏2)平津)児嶋敏一氏
0コメント