維新列伝 激動の時代を 駆け抜けた風雲児・鳥尾小弥太(とりおこやた)

子爵にまで上り詰めた小弥太は、ある日、父の面影を偲ぶため、加古川・光念寺に墓参した。 父は、加古川の菊屋という旅館で志半ばで逝った。父の最後を看取ったという、今は年老いた当時の女将に会い臨終の様子をつまびらかに聞くことが出来た。「あぁ、あなたがご子息でしたか! お父様はお亡くなりになる間際に、このような言葉を遺されました…。

“他には何も思い残すことはないが、江戸に残してきた息子のことだけが気がかりじゃ。”と…。」 

これを聞いた小弥太は、大粒の涙を流したと言われる。彼の胸に去来した熱き思い、それはなにか…。 おそらく一瞬、彼は小弥太から、幼名の一之助に戻った。

そして、幼き日の父の背中のぬくもりを思い出し、自身の死後は、永遠に父の背中で眠りたい、そう思ったのではないか…。彼はこのように遺言を遺したという。「私が死んだら、父が眠る光念寺に葬るようにせよ」と。 明治維新という近代日本の黎明期を、勤皇の志士として熱き思いで駆けぬけてきた風雲児、鳥尾小弥太。ここに、その波乱に満ちた生涯の一端を紐解いてみることとする。


奇兵隊では、長州征伐や薩摩藩との折衝など倒幕活動に従事。戌辰戦争では鳥尾隊を結成し、鳥羽伏見の戦いをはじめ奥州各地を転戦する。その後明治9年(1876・28歳)には陸軍中将に昇進。明治10年に勃発した西南の役では補給・部隊編成に就く。


明治13年(32歳)、病気の為一切の要職を辞すが、維新の功績により同17年には子爵を授与(36歳)。

明治38年(1905)4月13日、静岡・熱海に死す。

享年58歳。生前の希望どおり、加古川・光念寺において父と共に悠久の眠りについた…。


エピソード(小弥太変名由来)

幕末の奇兵隊時代になって、変名として「鳥尾小弥太」を称した。

隊士が集まった夜話の際に、同姓者が多い「中村」では人違いで困る、と話したところ、系図に詳しい一人が「中村姓の本姓には“鳥尾”姓がある」としてこれを選び、更に勇ましい名前を、と「小弥太」を選んだ。


一夜の冗談のつもりであったが、翌日、ある隊士が隊長に提出する書類に「鳥尾小弥太」と悪ふざけで署名。これを契機に変名を名乗った、とされる。また、勤皇活動の類が家族に及ぶことを畏れた父が勘当したので変名を名乗ったとされる説もある。


鳥尾家の墓(加古川・光念寺)

小弥太父子の墓は、高さ2メートルくらいの塚で、松が二本植えられ、墓碑には「南無阿弥陀佛」と彫られていた。 ところが、昭和40年代に塚は壊され、現在は、残念ながら無縁仏の中に整理されている。光念寺には、小弥太の位牌や、肖像画などが残り、動乱に翻弄されながらも失う事のなかった親子の絆を今に伝えている…。


当寺は、真宗の寺院で、慶長元年(1596)、篠原村西本願寺末善照寺の住僧・西賢が創めた所で、加古郡東本願寺派のはじめである。西賢の俗姓は本多氏、奥州白河の出身である。

ご本尊は「木造阿弥陀如来立像」宝物としては、蓮如上人絵像・聖徳太子絵像などがある。



引用及び参考文献等


① フリー百科事典「ウキペディア)

② 「ひょうご幕末」

  (萩博物館・高杉晋作資料室長

   一坂太郎氏)

③ 史跡てくてく・第15回

  「勤皇の志士鳥尾小弥太」

  三浦孝一 氏 編集

   播磨の歴史を語る会 会長

   播磨石造遺品研究会 会長

   加古川市文化保護協会 副会長

五郎のロマンチック歴史街道

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