昭和7年(1932)、倉谷清太郎氏の手に移り、改造を加えて「新興座」となり、旭倶楽部とともに活動写真館となった。この館で上映された「青い山脈」や「君の名は」は超満員だったという。
新興座の沿革
明治32年(1899)12月11日に建設許可が下り、翌年の6月7日、加古川駅前に新築の“常設芝居小屋”が誕生した。「寿座」である。興行主は、永江方蔵氏。明治32年といえば、加古川の地に日本毛織・第1工場が操業開始。男女従業員150名を雇用して大規模な産業都市を目指して産声を上げた、記念すべき年でもあった。
さて、「寿座」建設費用の殆どは、寺家町の資産家である三宅利平が出資した。三宅家は、明治18年に明治天皇が加古川に立ち寄られた際、その年の12月に日本初の総理大臣に就任した伊藤博文が休息の場として選んだほどの家柄であった。その利平の末子であり、初の「加古川市名誉市民」第1号に選ばれた演劇評論家の「三宅周太郎」は、寿座の出入りが自由であったため、演劇好きの少年になり、終生文芸一筋に活躍したと記録されている。
大成座の時代へ
「寿座」誕生から16年後の大正4年(1915)12月28日には、播州鉄道が持ち主となり、「大成座」(社長は伊藤英一氏)に改称した。この年は11月10日に京都御所で即位礼紫宸殿の儀、11月14日に大嘗祭が行われた大正天皇即位の年であり、また日本が中国に対し満豪での権益増大を目論んだ、いわゆる“21か条の要求”を提示した国際的にも反発を招いた、きな臭い年でもあった。
芝居小屋「大成座」においては、当時一世を風靡した「尾上松之助」などが常打ちする時期もあったと言われる。日本映画草創期に活躍した時代劇スターであり、日本初の映画スターといわれる。旅役者から牧野省三に認められて映画界に入り、『碁盤忠信源氏礎』でデビュー。牧野とのコンビで横田商会、日活の2社で1000本以上の映画に出演、大きな目玉を向いて見得を切る演技が評判を呼び「目玉の松ちゃん」の愛称で大衆に親しまれた。
活動写真館「新興座」の誕生
活動写真館「新興座」の誕生
昭和7年(1932)、倉谷清太郎氏の手に移り改造を加えて「新興座」と改称、旭倶楽部とともに活動写真館となった。戦後、娯楽の少ない時代には連日満員の盛況だったといわれる。中でも、新興座で上映された「青い山脈」や「君の名は」は超満員だったという。『青い山脈』は、石坂洋次郎の小説『青い山脈』を原作として制作された映画。5回製作されたが、最も名高いのは昭和24年(1949年)の今井正監督作品。
主演は、原節子。この頃には、芝居と映画の双方を行う「加古川劇場」もあった。
君の名は(第一部)
昭和28年(1953)9月15日公開。
2億5047万円の配給収入をあげ、当年度の配給収入ランキング第2位(1位は同名第二部)。主演は、岸恵子、佐田啓二。冒頭のタイトル表記には「第一部」の字はなく、最後に「君の名は 㐧一篇 終」と表示される。
この頃の小中学校では、すでに校外授業があり、教師に連れられて映画観賞会も経験したという人も多いという。
近代的な「新興会館」としてリニューアル
そんな「新興座」も、昭和31年(1956)には鉄筋コンクリート造りの建物に建て替えられ、「第1・第2新興会館」となった。ワンフロワー、ワンスロープ(「ワンスロープ」とは…ホール内に階段や段差を作らず、前列は低く後列は高く傾斜をつけた仕様のこと。)という特徴的な建物であった。
また、当時、どの劇場にもなかった設備を有しており、冷暖房完備、映写機、発声器を備え防音装置も完備した映画館であった。座席数は第1、第2ともに260席。会館内には、食堂や喫茶店、たこ焼き屋、うどん屋、飲み屋も営業していた。そしてその新築場所も「大成座」「新興座」とともに、初代の芝居小屋「寿座」とまったく同じ場所であった。
(文中のアンダーラインは「ふるさとの想い出写真集加古川」より引用)
上の写真は、昭和36年当時の「新興会館」である。昭和36年と言えば、第2次池田内閣が発足した年である。「所得倍増計画」をぶち上げ、『貧乏人は麦飯を食え』と池田勇人首相がラジオを通じて国民にハッパをかけたことを当時中2であった筆者も、よく記憶している。
今の時代に総理大臣がこのようなことを言ようなら、まず間違いなく、即座に各方面より批判が噴出して内閣崩壊となるのは目に見えている。しかし、(これは私見だが)昔の庶民感覚は現代よりはるかに貧しかったが、寛大で包容力があり、庶民間の連帯を重んじたこともあり、豊かさを目指し、日本の行動指針を示した一国のリーダーが国民に向けた励ましの言葉であると、多くの人々が善意に受け取り発奮した、そんな時代であったと考える。
この発言でメディアが煽り、現代のように「批判の渦」で騒然とした記憶は、ない。この年はまた、アメリカ第35代大統領にジョン・F・ケネディイが選ばれた年でもあった。
写真をよく見ると、新興会館では怪獣映画「モスラ」の興行が行われている様子である。
「シャープテレビ」や「会館食堂」などの看板も、見え、駅前にはアーチが常設、「日本毛織」の巨大なネオン文字が、ニッケが加古川を代表する企業であることを表している。
『モスラ』は、昭和36年(1961)7月30日に公開されたゴジラ、ラドンにつづく東宝製作の怪獣映画であり、日本で初めてのワイドスクリーンでの映像は、まさに圧巻で音響効果も抜群であった。また巨大なモスラの卵の前で歌うまだあどけなさが残る”ザ・ピーナッツ“の主題歌も印象的であった。
ポスターには、「総天然色」と書かれており、まだこの時代では、モノクロ映画が主流であったことを物語っている。今思い出せば、既に死語となって久しい懐かしい言葉の一つである‥。
加古川の映画館その後
昭和40年代初めには、急速なテレビの普及により、「新興会館」も他の映画館とほぼ同時期に閉館となり、一旦は全て加古川から姿を消した。しかし昭和45年(または46年)になり、加古川駅前に、加古川初の「複合映画館」が誕生した。(興栄ビル・加古川興行<株>)その後、平成元年に「興栄ビル」が閉館してからは、平成13年にワーナーマイカルシネマズ(現イオンシネマ)がオープンするまで加古川には映画館のない時代が続いたのである。
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