昭和5年、加古川駅前の「大成座」から「新興座」に改称された頃、
本町・雁南川のたもとには、芝居小屋「加古川劇場」があった。
加古川映画劇場
「映画館名簿」によると、昭和27.28年当時までは「加古川劇場」。その後昭和35年には「加古川映画劇場」と記載されているが、地元の人々には「加古川劇場」として記憶されている。
同名簿によると、営業不振で昭和37年に「閉館」となっている。下の写真は昭和27年に撮影されたものであり、高校生らしき人物がチケットを購入している様子が写されている。
廻り舞台や花道があった
映画館でありながら、地方回りの役者一座が10日間ほど公演することもあり、「加古川劇場」には立派な「廻り舞台」や「花道」などの設備も整えられていた。
筆者の記憶では、邦画だけでなく洋画も上映していたように思い出される。
人気がある”出し物“によっては、映画館の入り口あたりまで、自転車があふれている時もあった。当時、自転車預かり賃は、だいたい10円程度であった。
自転車には、予め紐に通しておいた同じ番号が書かれた木札2枚のうち、紐のついた木札をハンドルにぶら下げ、一方の木札を客に手渡すというやり方が一般的であったので、上映時間前には、客が一度に押し寄せるため、管理員さんが神業のように走り回って木札を手渡していた光景をいまでも鮮明に記憶している。
映画が終われば、うら若いフィルム配達員が、その黒っぽい大きな円形のフィルムを肩に担いで、自転車で次の上映映画館まで走る‥そんな光景がどの映画館でも見受けられた。現代では風化してしまった懐かしい思い出である。
本町に住むご婦人Kさんの思い出話
小宅の近くに住むご婦人に「加古川劇場」の思い出話をお聞きすることが出来たので紹介する。
『私が女高生で三年生の時でしたか、「この世の花」は悲恋映画で女高生にもとても人気のある映画でした。また、島倉千代子が唄う映画と同名の歌もよく流りましたね。期末試験が終わったあと、その成績がよかったのでしょうか、親がご褒美ということで映画代を出してくれました。お友達の女高生数名で加古川劇場で胸を躍らせながら観賞した記憶があります。当時は、男性と二人で歩くなんてことは絶対になかった時代でした。今では考えられない封建的な時代だったんですねぇ‥。』
衰退期の加古川劇場
「加古川劇場」で映画興行が不振になってからは、
また地方回りの役者一座が舞台で芝居するようになった。客数は激減していたが、チケット売り場では、好みの役者に投げる赤、青、黄色の紙テープも販売していたようである。
このような光景を見られるのは、加古川ではこの劇場が最後であったと筆者は記憶している。尚、現在の跡地は屋内駐車場となっている。
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