為 河川犠牲者追善供養
真紅のペチュニアに囲まれた地蔵尊を訪れた7月17日、“私がこのお地蔵さんの涎掛けを作っているんですよ”という女性に偶然にもお会いすることが出来た。
米田町に住む彼女の話では、これまで700枚以上の涎掛けを作って市内のお地蔵さんにお参りし、交換しているのだ、という。
ゆうに80歳を超えたこの女性は、さらに次のように続けた。“お蔭様でこれまでお金にも困らず、健康にも、また家族にも恵まれて、本当にありがたいと感謝しています。お地蔵さんのお蔭です。”
ちなみに、この方のお名前は、お地蔵さんの涎掛けの裏側に記入されている。余徳をいただくため、一度涎掛けをめくってみては…?
プールなどはまったく普及していなかった昭和20年代、夏になると加古川は、小紙編集者も含め子供たちの水泳場として、おおいに賑わったが、事故も多く、水難者が絶えなかった。
編集者も小学生のころ、たき火を背にし、堤防の下でわが子を抱いて泣き叫ぶ母親の姿を見掛けたこともあった…。
敗戦直後の極貧の中で、橋の欄干から身投げする人もあった(住民談)時代でもある…。
そこで、犠牲者の追善供養と、水難犠牲者の無きことを祈願して、地蔵尊を建立することを決め、遺族をはじめとした8名の発起人が市内各方面に寄付を募り、当時の金額で21万余円の資金が寄せられた。
現在の貨幣価値では、500万円に上ると思われる。この資金で、昭和29年8月24日に完成の日を迎えることとなった。
それから42年後、これまでは左岸沿いに住宅があったが、車の交通量増加に伴い左岸道路が拡幅されることとなり、これらの住宅は、地蔵尊を含め、取り壊しの対象になった。
そこで地元の人たちが相談して、10数メートル南側である現在地に移設することとなった。今回、近隣住民に聞いた話では、移設に当たっては、当時の町内会長である成田氏と、岡田義治老人会長がとくにご尽力されたとの由である。
また、入魂式を機にして、近年の交通事故増加にかんがみ、今後は交通防止のお地蔵さんとしてもお祀りしていくことになった。
なお、当該地蔵尊の管理は、発起人主体から昭和34年頃からは地元老人会主体とすることになったという。
編集後記
小紙編集者にあっても本地蔵尊については、少なからず思い入れがある。昔、加古川が氾濫した際に、濁流にもまれた阿弥陀如来を、今は亡き父が拾い上げた。
そして、その像は、いまでも小宅の仏壇に安置されている。心根の優しい父であった。晩年父は着物を着て、杖をつき、よく加古川地蔵尊にお参りしていた。そして、近くの石に腰を掛けて、いつまでも西の山を見続けていた。
西の山ふところには、父の生まれ故郷があったのだ。後になって思えば、もう一度ふるさとの地を踏んでみたかったのではないか…、そう思える。その機会を失ったことに、今でも後悔の念を抱き続けている。合掌
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