『無礼者!』供侍が激昂するや否や、横一文字に空を切った刃は、不覚にも参勤交代の行列を横切った一町人の胴を瞬時のうちに一刀両断にした。
「無礼討ち」であった。
しかし…、である。その若者は一時の後に目を覚まし、切れたはずの腹をまさぐってみたが、なんということか、傷痕ひとつないではないか!狐につままれた思いで、ふと近くのお地蔵さんを見てみると、驚いたことにお地蔵さんの胴体が真っ二つに切れていたのである。
『お地蔵さんが身代りになってくれた!なんとありがたいことか。』と、その若者はお地蔵さんの慈愛に感涙するとともに一層信仰心を深めていった、とのことであった…。
この伝説の舞台は、旧山陽道(西国街道)と庄内川(地の人はこれを『西の川』と称している。)が交差する加古川町平野の西端に位置する『胴切れ地蔵』である。
庄内川を挟んだ西側には、歴史を感じさせる「大村株式会社」の煉瓦造りの壁が、より一層落ち着いた雰囲気を醸し出している。お堂の周りには桜が植えられており、春は桜花、秋は桜葉の紅葉と、お参りに訪れる人々の目を楽しませるには十分な風情である。
また、町内4名の方による“堂守り”さんにより、四季折々の花々が絶えることなく道行く人々の心をも和ませている。
長年にわたり近隣に住む、長老格の山本さんに一刻のご縁を得てうかがったお話によると…。
『私が小さい頃…、終戦前後と思いますが、お堂に隣接している現在の中華料理店「精華園」さんの駐車場、その場所に藁葺の小屋があって、そこに地蔵尊をお守りするのが専らの仕事である「堂守り」(と私たちが呼んでいた人)が一人で住んでいました。伝説上で切られた町人は当時の「堂守りさん」であったと、小さい頃教えてもらった記憶がありますよ。今でも近所のご婦人方4人が月交代で献身的に「堂守りさん」の役を引き受けておられ本当に頭が下がる思いです。8月の地蔵盆には子供たちも大勢集まって、大賑わいです。お地蔵さんもさぞ喜んでおられると思いますよ(笑)』
その奇特な現代の「堂守りさん」の一人である船原さんにお会いしたのは、山本氏にお会いした日の午後であったが、突然の訪問であるにも関わらず、氏と同様、気さくな応対に心が和む思いであった。
その船原さんのお話によると…『このお堂が完成したのは、平成4年でした。お堂の建立が願いだったという岸本清次郎さんが建てて下さり、奥さんである美幸さんが寄進して下さいました。阪神大震災の時でも、お地蔵さんはまったくビクともしませんでしたね。ご利益?特別にこれというものではないですが、願いがかなって、子供が授かったというお話も聞きました。とにかく、お願い事をよく聞いて下さるということで、皆さん、よくお参りされますよ。お地蔵さんの腰をさすっているひとも、中にはおられます。(笑)
船原さんのお話は更に続く…。
『8月23日と24日は、例年にように地蔵盆。(本来は、子供たちがお地蔵さんに香華を供える日)前日から、私達3人が600人分のお菓子を買って当日、お地蔵さんの前に並べるんですが、それはもう、芋の子を洗うほど、大勢の人が集まって、すぐに“売り切れ”てしまいますよ!
お菓子をもらうときの、子供たちの笑顔を見るのが特にうれしいですネ。(笑)お地蔵さんの後ろ側のガラス窓だけが「すりガラス」なのは何か理由が…?とよく聞かれますが、
お堂の後ろ側にお墓が見えますねぇ。ふつうの透明ガラスにすれば、お地蔵さんの真後ろにお墓が見えるので、すりガラスに変えたということです。
それから、お地蔵さんのエプロンや涎掛けは、いつもきれいですが、どなたが交換して下さっているのか、今でも存じません。年に一度変えていただいているようですが、本当にありがたいことです…。』
編集後記
小生が地蔵尊をテーマとするのは、これで三度目であるが、共通して感じるのは、地蔵尊が地域の人々の日常に深く溶け込んでいるということ…。
伝説であるにしても、それを人の輪、地域の輪の醸成に、巧みに取り込み、住人
共通の心のよりどころにしてしまう。そんな先人の深い知恵に感嘆するばかりで
ある。取材と編集を終えた今、現代を生きる人間の一人として、前人の崇高な精神文化に只々頭が下がる思いであります。
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