前回の続きです。
「加古」元信号員による沈没時体験談
加古乗組員で、信号員であった石上民夫さんは、ご高齢また、体調不良等で、残念ながら慰霊祭にはご出席戴けなかった。そこで、事前に神戸新聞社・記者が、氏のお住まいである洲本市に出向き、沈没当時の状況を取材した。以下、(4年前の)神戸新聞掲載記事(2015-8-7付け)より、氏の述懐を抜粋して紹介する。
『前夜の圧倒的な戦果に、“やった、やった!”と沸いていたのが一転して、“ドーン・ドーン”という轟音が鳴りひびき、一瞬にして海中に投げ込まれた。覚悟はしていたが、やはり命は惜しかった。みんな浮いている樽などにつかまり、死ぬ思いで漂っていた。重度のやけどを負ったまま、サメに襲われ、命を落とす戦友もいた。私は、漂流して二、三時間後に友軍の駆逐艦に救助された。スコールを甲板で浴びて潮を洗い流したとき、少しだけ生きた心地がした…。今はこの艦に分霊が祀られていたことを知る人も減り、日岡神社と加古のつながりは、昨年の夏まで絶えていた。
学者から問い合わせを受けたのを契機に、神社が元乗組員や遺族らを探したが、生存者でつくる「加古の会」は解散していた。1年前(平成26年)沈没した日に合わせて関係者らに集まってもらおうと、同神社は、加古川市などを含む旧加古郡の戦没者慰霊祭を約70年ぶりに開くと同時に、初めて加古を顕彰した。あいにくの台風で参加者は少なかったが
同神社の關口洋介(権禰宜)氏は、「戦争体験を聞ける機会は、この先減っていくだろうが、慰霊祭は続けたい」と話されていた。軍艦の中でも、地味で加古について聞かれたことは、殆どなかった。日岡神社が縁となり、亡くなった戦友とともに、いつまでも忘れずにいてもらえたら…。』そう話されていた。
重巡洋艦「古鷹」ソロモン諸島沖で発見
『太平洋戦争中、南太平洋で沈んだ旧日本海軍の重巡洋艦「古鷹」が、ソロモン諸島・サボ島沖合の海底1,400メートルで見つかった』と、米マイクロソフト共同創業者で昨年死去したポール・アレン氏が設立した財団の調査チームが5月5日に発表した。
同調査チームは2月25日に古鷹を発見したという。編者が、まさに「加古」の調査取材中に飛び込んできた思いもよらぬニュースであった。不思議な巡り合わせ、そう感じざるを得ない一日だった。 古鷹は大正11年(1922)12月、加古型2番艦として三菱造船長崎造船所(現三菱重工長崎造船所)で起工。
加古より早い1926年3月に竣工したことから、この艦種は後に「古鷹」がネームシップ(複数の同型艦で最初に建造された艦船のこと。)となった。太平洋戦争では第六戦隊に所属し、昭和17年(1942)8月の第一次ソロモン海戦に参加。戦果をあげた一方、その帰途に姉妹艦の加古を雷撃により失った。 同年10月、ガダルカナル島をめぐる攻防戦で補給やアメリカ軍が占領した同島の飛行場への艦砲射撃などの任務に従事していた中、サボ島沖海戦が発生。夜間戦闘だったため、日米両軍とも敵味方の識別で混乱したという。
日本海軍には「伝統の夜戦」という言葉があるほど。見張りの兵員には視力の良いものが選ばれ、夜目が効いた。第一次ソロモン海戦でも優位に立ち、夜間戦闘に絶対の自信を持っていた。ところが、このサボ島沖海戦以降、米索敵レーダーにより、日本側の夜戦優位が失われた。時は既に、電子近代戦に移行しつつあったのである…。 (BuzzFeed News 令和元年5月5日配信)
編集後記
編者が加古の存在を知ったのは、恥ずかしながら、つい最近の事である。あるきっかけにより、日岡神社・権禰宜であられる、關口洋介氏にお会いできることとなった。
氏は『先の大戦の記憶が風化しつつある今こそ、軍艦と神社の関わりを見つめなおし、慰霊顕彰の誠を捧げ続けていくことが、また神社界の重要な務めであるのでは…』と話された。
今回の記事は、氏の、神社とのかかわりの中で平和を希求する熱意が完成させた、とも言える。
關口氏からは、数多くの資料も頂戴したことも含め、衷心より御礼申しめ、絶大なるご協力を得ましたことを、ここに衷心より感謝申し上げます。
引用文献等 ①「日本海軍艦艇写真集」 ②加古血戦譜(宮崎良純氏) ③防衛研究所戦史部 資料 ④「神戸新聞」記事 ⑤BuzzFeed 配信資料 ⑥鉛筆画(菅野泰紀氏) ⑦「巡洋艦加古と日岡神社」 (日岡神社 關口洋介氏)
次『3』に続きます。
0コメント