加古川ゆかりの帝国海軍軍艦
遙か南の洋上より、艦内神社を通じて、加古川と日岡神社に
思いを馳せた乗組員、そして全ての戦没者に鎮魂の誠を捧げる。
其の魔物のような物体は、紺碧の海中より忽然として現れ、海面を猛烈な勢いで切り裂きながら、一直線に襲い掛かってきた…。
昭和十七年八月十日午前七時十分、ニューアイルランド島のカビエンに帰る途中、「加古」は、米潜水艦(S-44)より3発の魚雷攻撃(艦首、艦中央部、艦尾)を受け、大破。乗組員七十四名が戦死し、艦内神社にお祀りされた「日岡神社」ご分霊とともに遙か南方の海底深く沈んで行った。
その前夜、午後九時から三時間にわたる「第一次ソロモン海戦」において、僚艦とともに圧倒的な大戦果を挙げた直後の、思いもかけない“殉難”であった。
この海戦では、これまで夜戦を得意とする日本軍の損害は皆無であったが、連合国側は、記録によると1,273名の前途有望な若い命が失われている。以下に記述する内容には、加古の艦歴や戦譜も事実として触れてはいるが、このガイド書が目的とするところは、そこではない。
「加古」を含む、全ての戦死者に末永く鎮魂の誠を捧げる、その一点のみである。
戦争には勝者も敗者もない。生まれ育ったその時代に抗えなかった数多の尊い人命が失われる、人間のみが行い得る最大の蛮行である。歴史は繰り返されるというが、戦争だけは「例外」であるべき事を、後人は強く肝に銘じ続ける必要があろう。
日岡神社で軍艦「加古」慰霊祭
昨年八月十日、加古川の日岡神社で、先の大戦、並びに、加古川に由来する旧日本海軍・重巡洋艦「加古」乗組員・戦没者に対する慰霊祭が、厳かに執り行われた。
「加古」は、一等巡洋艦として大正十五年七月に、神戸川崎造船所で竣工。当時は、姉妹艦である「古鷹」と並び、20㎝主砲を搭載した当時としては性能が優秀なことで、各国海軍を驚かせた傑作艦であった。
慰霊祭当日は、明治39年(1896)年に建立された「義勇奉公之碑」前で、宮司と市民約50名が参列して慰霊祭が執り行われた。また、鉛筆で画く艦船画家の菅野泰紀さんが奉納した「加古」の鉛筆画も飾られた。
さらに、艦内神社研究家の久野潤さんによる講演も行われ、その中で『艦内神社を研究していたご縁で、5年前から日岡神社が守護神として御霊を分けている「加古」と乗組員戦没者の慰霊祭に参加している。地元の人たちが日岡神社に関わり、慰霊することは意義深い事。戦争の是非を超えて、日本人にとって神社と軍艦がどのように繋がっていたのかを知ってほしい。』と話した。
また、菅野さんは、『旧帝国海軍の艦内神社を分霊する各地の神社に鉛筆画を奉納することで、慰霊と顕彰になれば、との思いで活動している。鉛筆画が、視覚的に神社と艦船とのゆかりを示して、参拝する人に興味を持ってもらえると嬉しい。』と話した。
(以上、2018-8-20付け加古川経済新聞より引用)
なお、「加古」鉛筆原画(455.652mm)は、社務所内に大切に展示されており、誰でも鑑賞できる。日岡神社主催で、加古慰霊祭を担当されている、關口洋介氏(権禰宜)によると、今年も、8月10日午前10時から、神社境内にて慰霊祭を執り行う予定です、とのことである。
”2”に続きます。(近日更新予定)
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