重巡洋艦『加古』その栄光と殉難の歴史1の続きです。
重巡洋艦「衣笠」乗組員が目の当たりに見た「加古」の最期
第一次ソロモン海戦において、「加古」とともに戦闘に加わった、重巡洋艦「衣笠」。その艦に、当時17歳、三等水兵で、「伝令」を主務とした少年兵がいた。
大正14年生まれで、94歳のご高齢でありながらも、矍鑠とされ、現在も「兵庫県海交会事務局長」をされておられる、丸 利郎氏である。(下は、『衣笠』乗組員当時、17歳当時)
日岡神社・關口氏にご紹介いただき、加古川市米田町在住である、氏のご自宅にお伺いしたのは小雨がちらつく、7月13日であった。戦後、昭和23年より35年間に亘り兵庫県警にお勤めされたこともあってか、失礼ながら殊の外、お言葉、ご記憶も明晰で、そのお元気さに圧倒された次第である。氏が職務とした「伝令」また、目の当たりに見た、『加古』の最期の状況を含め、お聞きすることが出来たのでここに紹介するが、その前に『衣笠』について若干触れておきたい。
重巡洋艦『衣笠』は、昭和2年に川崎造船所で竣工。
50口径20㎝連装砲3基6門を装備した、優秀艦
であった。艦内神社には、横須賀市の「走水神社」と京都市の「平野神社」がお祀りされていた。第一次ソロモン海戦においては、圧倒的な戦果を挙げたが、その3ヶ月後に火ぶたを切った「第三次ソロモン海戦」では、日本軍は完敗し、『衣笠』は、昭和17年11月14日9時22分、米空母エンタープライズ艦載機により、沈没した。
丸氏によると、総員700名の内、戦死者数は、55名とのことである。これにより、『衣笠』は、12月15日に除籍となった。
「総員配置に付け!」丸利郎氏の述懐
…『前夜の完勝(第一次ソロモン海戦)の喜びも冷めやらぬ、翌朝のことでした。朝食を終え、上甲板に上がり、清掃作業を行おうとしたその瞬間、急に『総員配置に付け!』との艦内放送が流れました。
その時、当艦の右舷側で航行していた『加古』の左舷に、ほとんど同時に三本の魚雷が命中し、大きな水柱が上がるのが見えました。
艦の炎上はなく、5分か10分くらいだったでしょうか…。
信じられないほどの速さで、あっと言う間に『加古』は沈没してしまいました。
…私は、艦長から『撃ち方始め!』『発射ヤメ』の指示を受けた「伝令」から、伝声管を通じて私に連絡が入り、その旨を砲術長に伝達する「伝令」を職務としていましたが、その時は「平常時」でもあったため、清掃作業を行う時間帯でありました。おかしいな、と思ったのは、ふつう潜水艦から同時発射される魚雷は2本であるのに、この時は、ほぼ同時に3本が命中したことでした。このような場合には、残念ながらすぐには救援活動が出来ません。
まず、各艦が協力して爆雷を投下し、敵がいなくなってからでないと、他艦が狙われた場合には、対応出来ないからです。海上で漂流している戦友を助けられたのは、沈没してから、2~3時間後であったと思います。私はその後、横須賀砲術学校に入校せよ、との命により、昭和17年10月2日、ラバウルを発ち、内地に帰還しました。
しかし翌年10月8日に、アラフラ海のケイ諸島に配置されましたが、幸いにも連合軍からの攻撃は受けずに終戦を迎え、昭和21年5月21歳の時、内地に帰還しました。玉砕した仲間が多い中で、このように生き永らえたことに、心から感謝しています…。
ただ、180名もいた「衣笠会」が、昨年2名が逝ったことで、自然解散せざるを得なくなったことが、とても寂しく思います。』氏は、小生の前で慈しむような眼で、丁寧に戦友名簿を、指で辿っておられた…。
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