“先取の気概”に宿る“和魂洋才”と“モダンセンス”
まだ着物が主流の時代であった大正、昭和初期にかけ、ニッケは制服として女子従業員に洋服を支給。
そのモダンさにあこがれる地方の女性が求人に殺到し、休日にはショッピングや映画にと、寺家町や本町に繰り出し加古川市域の発展におおいに貢献した。(商工かこがわ2012年5月号より引用)…そんなニッケの先取の精神とモダニズムは創生期に建設された現在のニッケ加古川社宅倶楽部に今もひっそりと息づいている。
●明治31年(加古川工場着工年)に、工場内に管理事務所として建設された。
●明治44年、現在の場所に移築。フランス人技師シャルルゲッツ氏の宿舎に転用。同時に西館併設。西館は外国人技師家族の住居とする為、居室風となっている。昭和40年代には独身寮として利用されていた。
建築物としての特徴中央にペディメント(切妻破風)のつくポーチを設け、左右均整のとれた洋風建築。米利堅(メリケン)下見板張りの外壁に縦長の上げ下げ窓(東館・固定溝はなくても思いの高さで止まる。)当初は瓦葺。外壁は昭和40年頃まではピンク色で塗装されていた。(塗り替えの際に発見)窓枠や二階の樋まわりには、ライン状の飾り(モールディング)が施されている。(ニッケ加古川事務所作成「社宅倶楽部豆知識」
BANBANテレビ制作「未来への遺産」より引用。)
夢を蒔く人との出会い…それが、音松の夢となり、ニッケ創生の契機となった。
日本毛織㈱創始者である川西音松(後に清兵衛と改名)は、神戸で実家の石油石炭の卸商に携わっていたが、ある日、兼松の創始者である兼松房次郎と神戸港の桟橋を散歩している際、ふと足元を見ると羊毛の屑が落ちていることに気がついた。
それが何かを知らなかった音松に房次郎は羊毛だと教え、豪州が羊毛の産地である事やいまだ日本では羊毛織物には馴染みがないものの、将来は大きな産業になることは間違いない。と話して聞かせた。
これを契機に音松は、家業の石油石炭商を辞めて羊毛紡績業に乗り出す決心を固めた。彼が興した日本毛織㈱は、後に日本最大の羊毛紡績企業に成長した。
(神戸大学経済経営研究所・「兼松は語る(藤村聡)より引用」
(このガイド書は2012年8月に公開したもの)
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