野口城落城ノ記

三木城攻略の緒戦において大敗した秀吉軍は支城から順次攻め落とし、三木城を無援の孤城とすることに戦略を変更した…。


天正六年二月の毛利攻めの軍議(加古川評定)で、別所側が秀吉に反旗を翻したことが発端となり、同年三月二十九日、秀吉は、大軍を率いて三木城に攻寄った。

「播州太平記」によると、その数五千余騎とある。陣は、鳥町(現三木市鳥町)に構えて、大軍で城を取り囲んだ。(三十ヶ所)一方、迎え撃つ播磨勢は、支城である野口城、神吉城、志方城に援軍の派遣を依頼し、四月四日には総勢千人にのぼる援軍が終結。翌日の五日、ひそかに忍び寄り決死の夜襲を掛けた。夜陰に紛れての急襲により、秀吉勢は瞬く間に総崩れとなり、更には、合図を受けた三木城からは約千人が討って出たため、秀吉勢は三木城との初戦において大敗を喫することとなった。

これにより、秀吉方は戦略の変更を余儀なくされ、支城から順次攻め落とし、三木城を孤立無援に貶めるという戦法に切り変えた。その初戦の舞台となったのが、「野口城」であった…。

野口城について


「別所長治記」によると、野口城は、『播州一の名城』として、秀吉が播磨攻めの最重要拠点とみなした城郭であった。また、東播磨を制した別所長治(三木城)の属城(支城)でもあった。

築城時期については、室町時代(1336~1573)であろうと推測されており、具体的な特定には至っていない。(長享二年・1492前後ではないか、との説もある。)「播磨鑑」には、『長さ四十三間(約77m)、横二十一間(約38m)野口庄寺家村に在り。四方沼田に囲まれた要害の城。総回り竹藪、外に堀構あり。』と記載されている。本丸が存在した場所であるが、以前は、教信寺南東側(西国街道に隣接)に位置する緩丘にあったと判断され、平成14年に、加古川市による「野口城跡」の案内板が設置されている。

しかしながら、教信寺・不動院北村ご住職談によれば、最近における研究結果により、本丸跡は、前述の位置ではなく、教信寺北東側にある、近年に建て直された『稲荷社』辺りが本丸跡ではいないかとの判断が大勢を占めている、とのことだった。稲荷社社殿上部にも、野口城跡としての由緒書きが掲示されている。

野口城合戦 

〜秀吉軍三千騎の猛勢に三日三晩、耐え抜き奮戦した野口勢三百八十余騎〜


野口合戦についても、様々な文献にその記述が残されているが、ここでは、いささか講談調、読み本のきらいはあるが、まず『播州太平記巻之三』より、以下紹介する…。



『(前略)然らば(そのようにして)責めよき野口へ押し寄せ、一番に攻略すべしと宣ひければ、人々是こそ良策に候はんと申せしかバ、天正六年四月三日の早朝に秀吉三千余騎を引率して野口の城へと寄られける。城主長井四郎左衛門尉邦時、三百八十余騎にて立て籠もりけるが、味方小勢、敵多数にて十倍せり。

尋常の軍にて叶ふまじとて、自身櫓(やぐら)に上り、寄手の近付をすまし、士卒を下知して(命令して)大筒を二三拾挺をつるべ打ちに放てば、寄手、三百余騎一時に打ち落とされけれバ、叶わじと思ひけん、二三丁も引きたりける。秀吉公、采配打振るて、言いがい無き者共かな唯命惜しまず攻め破れ土卒大将に進められ、勇気つのりて、おめき叫んで城際まで攻め寄けれバ、城主長井邦時は、黒糸縅(おどし)の鎧に、かちんのひたたれ頭形の甲を猪首に着なし、赤銅づくりの太刀帯て、黒くたくましき馬にいっかけ地の鞍を置きて打ち乗り士卒二百人を引具し、真っ先に突て出る。

この勢いに寄手しどろに成りて見えける所、城兵進み切り立てれば寄手、忽ち傍らなる沼田へ追い込まれ百余人討死す。(中略)秀吉公是を見て味方の士卒に下知をなし近辺青草を刈らせ、四方の沼田へ打ち込み平地にさせ、三日の間攻められけれ共弱る気配なし。是を聞きて、加古川の糟谷武則は秀吉に力を合わせんと野口へ出張し、手勢五百騎にて攻め立てる。また、姫路城主小寺藤兵衛尉秀吉に馳せ加わる。寄手多く加わりければ、野口城主叶わじと思ひけん、命限りに心得、葦に火を付け、投げ掛け投げ掛け大筒、小筒を並べ、筒先揃えて打ちければ、寄手引色になりにけれバ、秀吉公大手の芝の上にて大声上で、

『敵に十倍せり。中国に突き立てられ上方勢の名を穢すな、いでいでこの城を攻め落とすべし!』と勇んで下知し、隙間なく乗り込み乗り込み、味方の士卒色を立て直し、先を越れじと、我先に進んで外側の塀を四五十間引き崩し、木戸より乗り込みけれバさしもの長井も今は叶わじと思ひけん。兜を脱いで降参に出ければ…(以下略)

以上であるが、「郷土の石彫」(加古川市史学会田中氏)によれば、秀吉は『降参する者には、少しも手を出すまいぞ』と言って、城主四郎左衛門などの命を助けたという。

(自刃したという説もあるが定かではない。)



また、『播磨鑑』に見る合戦の様子は下記の通り


野口城、長四十三間横二十一間、野口庄在寺家村、四方沼田要害ノ城、今ハ田地トナリ村ヨリ半丁北ノ方総回り竹藪外に堀構。城主ハ長井四郎左衛門、知行(禄高)三千石、三木別所長治幕下トナリ、太守別所長治、羽柴秀吉と確執ニオヨビ籠城シ給フ、故ニ幕下ノ小城思ヒ思ヒニ立て籠ル、秀吉ノ大勢三木を攻メントキ、幕下ノ軍兵後ヨリ囲ミ、打破ラントス、是ニヨリ、秀吉ハ近国ヲ随ヘ書写ニ返リ給ヒケレバ、天正六年三木別所亡ボサンガ為勢ヲ集メ、先幕下ノ小城ヲ攻取ラント、四月三日坂元ヲ進発シテ、野口ノ城ニ押シ寄セ、閧(かちどき)ヲドット揚ゲレバ、長井モ兼て覚悟ノコトナレバ一族郎党切テ出、一命ヲ不惜散々ニ戦ヒケリ、サレトモ寄手ノ大勢荒手ヲ入替、隙間ナク攻メケレバ、城の兵百余騎打レケレバ、今ハ長井モ為方ナク兜を脱ギ郎等ニ持タセ降人ニ出ケル、同月五日終に落城シテケリ、長井ノ子孫今有リ彼所也。



野口城主、長井四郎左衛門長重とその末裔について


野口城主長井四郎左衛門は、賀古郡の名族である。長井氏の先祖は、平城天皇(延暦二十五年・806~三年間在位)を始祖とする由緒ある家柄である。播磨の国長井氏は、鎌倉幕府で執事を務めた大江広元の子孫に当り、播磨の国に土着したと伝えられている。なお、芸州の名門毛利氏も大江広元を先祖としている。

城主の墓所は不明であるが、弟の墓が不動院(教信寺)境内にある。(造立は慶安三年十月・1650)高さ2.4mもある大型の五輪塔である。地輪に「長井平左衛門」と刻まれているのが、かすかに読み取れる。戒名は「巌雪清知禅定院」

野口城合戦から72年後である。平左衛門の墓を守っているのは、地元に住む長井家の末裔である。城主の子供である治兵衛は、戦乱の中、命長らえて姫路城池田利隆に仕えたが、その後浪人となり野口城跡に戻り、百姓を始めた。その子孫が代々続き今も長井姓を受け継いでいる。


長井家がこの地水足村で代々居住していたことは1ページ目に掲載した「播州三木城図」に描かれた野口城の図」にも明確に記載されている。

すなわち、『右城ヨリ子ノ方五丁溝内村長井氏本家長井市右衛門家アリ此の家男子ノヲトガイ動クト云リ是長井四郎左衛門討死ノヲトガイ切ラレ候故ト云フ(後略)』という下りである。

長井氏の墓は、村人とは異なる特別な墓地に埋葬され墓の一つには「禅定院」とという特別の院号が刻まれていることからも、この墓の関係者は、永井氏の末裔と考えるのが自然であろう。



「播磨鑑」が引用する教信寺炎上と決死の宝物の避難


別所氏、僧地を侵し、城を当地の境内に築く、天正六年寅年秀吉公放火し、是を攻む。余炎当寺に移り、諸堂寺院一時に灰燼と化す。この時、不肖二人、本尊阿弥陀仏及地蔵菩薩、開祖の首面並びに土佐の画二軸を持て遠地に回避せる。ここに不肖等響記せし趣を略録し将来に伝ふる也

元和七年(1621)五月十五日

念仏山不動坊海長

同経蔵坊春盛

引用及び参考文献等1.「加古川の戦国城址めぐり(市文化財調査研究センター長岩坂純一郎氏)2.「野口城主とその末裔について」(郷土史愛好家小林誠司氏)3.「教信上人と野口合戦」(北野町内会高松武司氏)4.神戸新聞記事取材に応じて戴いた方教信寺・不動院北村ご住職



0コメント

  • 1000 / 1000