本町二丁目 長老たちの少年時代(開戦当時前後)
去る8月の或る日、「ひだまり会館」で当町の長老三名の方(男性)にいろいろお話を伺う機会を得た。
その概要は以下の通り。
『当時は、西谷さんの西隣が空き地で、野球などの遊びをよくしていた。また、そこでは畑も作っておりました。また世話田(せわだ・川)でお母さんたちが毎日洗濯をしておりました。僕たちは川の中で魚とりや堰止め(じゃっかい)して魚も取っていた。結構、魚も多かったので、みんな必死で獲っていましたね。
戦争の招集令状(赤紙)がきた出征兵士のお宅には、出征後、子供たちも勤労奉仕を行いました。風呂の水を入れたり、「かまど」でご飯焚きもしました。子供たちのたまり場は、ニッケの煉瓦塀沿いの道で、パッチンや、パチンコ、ゴマ回し、ちゃんばらごっこで、母親が呼びにくるまで、夕方まで遊んでいましたね。加古川の堤防では、土手焼きやインディアンごっこや土手滑りなどして遊んでいました。
みんな貧しい時代でしたが、子供たちの顔は笑顔でいっぱいで、眼も輝いていました。
遊び道具は、全部自分たちで作っていた時代です。良い、悪いは別として、現在の飽食の時代とは、隔世の感があります…。』
編者、五郎の少年時代(昭和30年前後)
編者は昭和22年生まれで、団塊世代の一期生でもあります。私たちの子供時代は、長老方のその時代での経験とそんなには乖離していませんが、とにかく、家に帰れば、すぐにカバンを放ったらかしにして、近所の仲間たちと様々な遊びに熱中していました。
集合場所は、今の1丁目の玉垣さんのお家の裏(今でも、狭いですが空き地になっています。)で、小さな祠がありました。ここでは、川原で切った木をナイフ(学校で鉛筆を削るのに、みんな小さなナイフを持っていた。)で刀にしたり、世話田でとった木のツルと竹で弓を作ったりと、忙しい毎日でした。それで、たまに‟御前試合”などして、“剣客”のランクを決めていました。私はいつも3番目で、どうしても先輩の二人には勝てませんでしたね。
ガキ大将の親方は田中さん家の「直さん」で、2つ上でした。2番手は、館さん家の「てっちゃん」。私は三番手でした。
あとは、井川さん家の「ゆうちゃん」や前田さん家の「佐登志ちゃん」それと女の子ですが、館さん家の「鈴ちゃん」。こんなところが主なメンバーだったと思います。みんな、小遣いを稼ぐため、ときたま加古川鉄橋の下で、大きな磁石を腰につけて、鉄類の廃品回収をやっていました。それを、てっちゃんの家に持ち込んで、一人当たり5円とか10円程度戴いておりました。
使い道はいずれも、若田食堂さんでのアイスキャンデーや、週に一度来る「正ちゃん」という紙芝居屋さんでの、水飴代。(どちらも5円でした)。
あとは、ビー玉当て遊びや、パッチン、コマ回しや振り回したコマを手に乗せて、鬼探し遊びやバイ(銅製の小さなコマ)回し、路面にロウセキで自分の陣地を増やす陣取りゲームなど、なんでも自分たちで考えて、自分たちで作って遊んでいました。
学校では給食がコッペパン一個と小さなマーガリン一個、それとミルク一杯だけでしたが、これもいい思い出ですね。
昭和の母 その群像
一般論ではあるが、昭和のお母さんたちは、力強かった。そして、常に、“凛”とした風格をも備え乍ら、家長たる夫を支え重んじ、子供たちにもそのように教育していた。
編者の母親もその一人であった。悪いことをした時には容赦なく叱った。叱っても反省しない場合にはほっぺたを叩かれた。学校で喧嘩して帰った時には、何も言わずに、傷の手当てをしてくれた。
現代のように、学校やけんか相手に文句を言うような人は殆どいなかった。
朝から晩まで働き詰めで、子供の面倒など見てる暇もなかったけど、いつも一番気にかけてくれていた。
年長の子供たちは、そんな親を助けるために、弟や妹をネンネコに背負い、遊んでいた。
冬の冷たい風にさらされながら洗濯板で毎日のように庭で洗濯している母の手を幾度も見たことがある。
いつもアカギレができて痛々しかったが、母親は一切、そのようなことは子供には言わなかった。
常に隣近所とは仲良くし、互いに食べ物なども届け合うような社会性をも兼ね備えていた。
頂戴した物のお返し(お礼)する場合には、それを”入れ染め”と称して『ほんの入れ染めですが…』と言って借りたお皿に盛り付け、お礼の御返しにした。昔は、庶民のなかでも、そんな美しい“大和言葉”が息づいていた。
編者も、母親が内職していた時期には、学校の放送部アナウンサーを断って、帰宅後は母親とともに内職にいそしんだ記憶がある。
ある時、放送部担当の中村紀郎先生が、編者に翻意を求めるために自宅に訪れたが、親子共に働いている姿をみて、言葉少なく帰られたことを今でも記憶している。申し訳ないと思ったが仕方なかった。
私事を一例にしてしまい恐縮ではありますが、これまで述べた、そんな母親を、また寡黙ではあったけど、いつも見守ってくれた父親と共に、今でも世の中で最も敬愛し、尊敬しています。貧しいけれど、毎日が輝いていた。
そんな時代に生まれ育ったことに心から感謝しています。
編集後記
最近の子供達には、三つの“間”が失われていると言われている。
すなわち、「時間」「空間」「仲間」である。ゆったりと流れる時間の中で、何をするにも一緒、そんな子供たちの姿が見られなくなって久しい。
この小紙の主役は、まさに、終戦後から昭和30年代にかけての天真爛漫で、勉強もそこそこにして遊びに熱中していた子供達である。
その傍らで、家業を助け、弟や妹の面倒をよく見ることを忘れなかった。隣り近所との付き合いから生まれた明るい笑顔・・・。いつも何か面白い遊びがないか、と考えるやんちゃ坊主たち、ガキ大将を中心にして、タテの社会も自然に身に付けて行った。
世話田の川で魚とりに興じたこと、木や竹を切って刀や、弓矢なども作ってチャンバラに興じた楽しい思い出。そ
んな遙かに遠い時代ではありますが、長老たちのお話や、写真、昔の地図などをご覧いただき、年配の方には、古き良き時代を思いめぐらせていただきたいと存じます。
またお若い方には、今では想像もできない時代の子供たちの輝き、きらめきを感じていただき、恐縮ではありますが、これからの家庭生活の中で、もし何か得る所があれば、活かせていただければ幸いと存じております。なお、最後になりましたが取材に応じて戴いた当町の御三方には、衷心よりお礼を申し上げます。
引用文献等1.岡田義治氏著
「本町3丁目界隈雑記」
2.フォトアルバム
「加古川・高砂の昭和」
3.寺家町商店街連合会事務所保管資料
4.取材に応じて戴いた方々
糟谷浩美氏
西谷正氏
前田尚敏氏
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