賀古泊(かこのとまり)の守護神『泊神社』 その由緒と歴史を訪ねて

『私たちが小さい頃には、隋ずい神門しんもん(神門)南側の「泊川」は水量も多かったし、水もきれいでしたから、夏になると、子供たちはみんな泳いでいました。隋神門のちょうど前あたり、川べりには、川の中まで続く石段があって、石段の一番上両側には常夜燈が2基建っており、“船着き場”の風情を残していました…。撤去されたのは、昭和47年に始まった泊川改修(矢板打ち)工事の時と思いますが、現存していれば、よい史跡になっていたと思いますよ。』

また、『終戦前には境内の植樹はほとんどが伐採され、戦闘機の格納場所にもなっていました。父から聞いた話では、尾上飛行場から、「太子道」を通って人力で飛行機を移動していた、とのことでした。』


……縁あって、友沢在住の吉田氏、また神社の東隣にお住いの尾代氏を訪ね、お聞きした懐古談のうち、異口同音に話された興味深い内容は、おおむね以上の通りである。


編者も小さい頃、神社祭礼の都度たしか5円で売っていた唐黍を噛み乍ら夕暮れの家路に向かったことを今でも記憶している。半世紀余り前、昭和真っ只中の懐かしき思い出話である。

播磨鑑によると、泊神社は印南郡河南庄木村に鎮座して「大日おおひる霊め尊のむち」「日前ひのくま神」「少彦すくなひこ名な神」の三神を祀り、正一位の神階をもつ、かなりの大社であったことが伺える。

かっては、加古川尻の港、つまり古代の『賀古泊』の守護神であったと思われる。社伝に、秦はたの河かわ勝かつが工を起こして社殿を建てたというのは、そのような当社の古い由緒を反映するものと言えよう。(以上、『加古川市史』より)


当社が鎮座する「木村」であるが、江戸時代には印南郡雁南庄木村と称した。古くは「紀伊村」といわれ、のちにキムラになったという。山守部の支官、木守部の居場所でここでは木材の管理をしていたといわれる。鶴林寺文書には「木守」とあるが、ここの村ではないとみられている。(以上、『古地名新解・加古川おもしろ誌』石見完次著より

宮本伊織と泊神社


棟札の発見


昭和36年(1961)のことである。泊神社の屋根裏から、宮本武蔵の養子である伊織が奉納した棟むね札ふだが発見された。

1級資料としては最新の発見であり、その後の武蔵研究を大きく変えることとなった。


郷里の鎮守であった泊神社の社殿が荒廃しているのを知った伊織が、武蔵没後8年目(承応2年・1653)に地元にいた一族とともに、社殿を修復した時の記録である。

ここで明らかになったことは、武蔵については、その出身地が、吉川英治のいう作州(美作)ではなく、実は播磨国米田村であった、という事実であったが、吉川作品があまりにも有名

であるため、残念ながら全国的に、その浸透度は低いと言わざるを得ない。


棟札の現代語訳(一部略)


…私(伊織)は村上天皇・赤松氏の流れを汲んでいるが、赤松持貞のころ振るわず、「田原」と改姓し、印南郡河南庄米田村に子孫代々が住んだ。田原貞光の頃から同じ赤松一族である御着城主小寺氏に仕えた。作州に新免という武士がおり世継ぎのないまま筑前の国で死んだ。その遺志を継いだのが、「武蔵玄信」で、のちに宮本姓を名乗った。

私が15歳の時に明石の小笠原忠政に仕えたが豊前ぶぜんの小倉(北九州市)に移ったので、私も従った。木村など十七村の氏神である泊神社や、米田の菅原公を祀る神社の老朽が激しいので、一族は深く嘆いていた。

そこで小笠原家が栄え、先祖の田原家を供養するため、私の兄「田原吉久」ら四人が力を合わせ社殿を新しくした。承応二年(1653)五月宮本伊織源貞次謹んでもうす。(以上『加古川とその周辺の歴史』伊賀なほゑ著より)


南北朝時代、暦応りょくおう2年(1339)この地に平城が建てられた。大井三樹伊予守宰任従五位左京亮が、地頭職を賜って築いた城と言われている。跡継ぎの五男雁南右衛門史郎勇は、主馬助と称し永和元年(1379)家督を継いで赤松氏に従った。

嘉か吉きつ元年(1441)嘉吉の乱で将軍義正を刺した赤松満祐が滅んだあと、播磨は山名宗全の支配下に置かれた。享徳3年(1454)勇の長男雁南行部太郎長が家督を継ぎ、木村源五郎と称した。

翌年の康こう正しょう元年(1455)4月、赤松則尚が勢力奪回のため三千余騎を引き連れ挙兵した。この戦いで赤松方として参戦した勇は討死したといわれ、主君則尚も備前で自害した。その2年後の長禄ちょうろく元年(1457)山名宗全は、赤松氏に味方した播磨の諸城を攻略、石弾城も攻撃を受けて源五郎の石弾城も落城した。(帝国博物学協会城郭研究部)

編集後記


当社では四季折々に祭礼が催行され、特に秋祭りには町村毎に子供たちが担いで練り歩く『お神輿』で境内は黄色い歓声が響き渡り、その賑わいも餅まきの際に最高潮を迎える。

時代が変遷しても、いつまでも地域住民に愛され続ける神社である。

ただ、冒頭に記載した船着き場の写真については地元の方や市の関係者にも当たってはいるが、まだ見つからないのが心残りである。

今回第2次泊川改修工事が始まるが、関係者によると住民の要望を取り入れて、多少なりとも船着き場であった風情が感じられるよう配慮して施工するとの由。

その出来栄えを今から心待ちにしている。

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