加古川町平野 龍泉寺

〜春秋を織りなし、おろち伝説が今なお息づく播磨の名刹〜


昔、龍泉寺は、寺家町字蔵屋敷、今のニッケパークタウンの辺りにありました。

この付近には大蛇が棲む大池があり、里人は毎年人身御供を行っていました。

ある時、諸国修行の旅僧が池のほとりに通りかかると、娘とその両親らしい男女が、さめざめと泣いており、何事かと、里人に聞いたところ、

『この池に大蛇が棲んでおり田畑や人畜に害を及ぼすので、毎年、人身御供をしています。

今年は、あの娘さんがくじに当り、今夜、この池に身を投げることになっているのです。』

旅僧は、気の毒に思い、

『今夜のところは、拙僧に任せなさい。』と言って、親子を家に帰し、一人、堤に立って静かに念仏を唱え始めました。

真夜中近くなった頃、にわかに黒雲が沸き上がり、雷鳴とともに、池の主が、忽然と姿を現し、怒りの形相ものすごく、僧めがけて襲いかかってきました。

僧は、すかさず念珠で、大蛇の頭を、ハッシ、と打ち据えたところ、その気迫に恐れをなしてか、池底に沈んでしまいました。

その後も、まんじりとせず、明け方まで念仏を唱え続けていたところ、西の空が白み始めた頃、醜い大蛇の死体が浮かんできた、とのことです。

里人たちが大いに喜び、僧に感謝したことは言うまでもありません。人々は、 この地に一宇(家)を建て、寺として、僧に住んでもらうことにしました。

文永11年3月、今から700年以上も前の事ですが、この僧こそ、のちに浄土宗西山派本山の法主になられた「観智上人」その人でありました…。

その縁で、山号を『一鱗山』とし、寺号を『龍泉寺』と呼ぶようになりました…。

(以上、「郷土のおはなしとうた・第1集」より

ただ、今般、ご住職にご縁を頂戴し、伺ったお話によると、別の説もあり、観智上人が、この地に通りかかったところ、突如、池の上に大蛇が立ち上がり、『寺を開創するなら、この地が良いぞ…。』と告げられた、とのことである。

なお、この地に池があったかどうかについては、『加古川は、蛇行を繰り返しており、当時、近くに沼か、池が存在した可能性もありますね。』とのお話であった。



龍泉寺縁起と略歴

文永11年(1274)3月、観智上人により開創。ご本尊は「阿弥陀如来」。

天正時代に秀吉が入国、兵火により焼失。慶長年間に再建。(ご住職談では、僧である「應てん」が関わった、といわれる、との事。)明治44年(1911)6月12日、再度焼失。(庫裏のみ残る)


のちに、大正5年(1916)8月7日氷丘村平野に移り現在に至る。なお、ご住職の談によれば、往時を忍ぶ物は、ニッケパークボウル西に建つ大銀杏のみ。

(現地立札には樹齢360年、高さ31.5m、幹周4.85m、直径1.54mと記。)当時、龍泉寺境内にあった大銀杏である、との由。(加古川市史第1巻及びご住職談)


↑本写真は、明治44年に焼失した直後に撮影されたものである。

庫裏のみ焼失を免れている。(加古川市史第1巻)ご住職によれば庫裏の奥に立つ木が、現存する大銀杏である。

上の写真は、ご住職に特別にお見せ戴いた、寺代々に伝わる貴重な袈裟である。

紺地に金色の瓢箪柄がちりばめられており、とても400年以上の歴史があるとは思えないほど美麗である。

お話によれば、秀吉入国の際の兵火による焼失に当り、秀吉側より詫びが入り、その際に贈呈された品である、と言い伝えられている。

瓢箪柄の袈裟は、まず目にすることが出来ない、きわめて珍しい品である、とのお話であった。



龍泉寺の宝物と石造物


五輪塔


康永3年(1344)

僧定蓮が、衆生を救うため、浄財を募り建てた塔と言われており、それを記した銘文がある。(殆ど土中に埋没)塔の全高1.77m塔身のみ花崗岩。他は竜山岩。塔身の文字は、阿弥陀を表す梵字で、キリク(キリーク)と呼ばれる。元は、旧山陽道の道沿いで、龍泉寺より西へ150mの場所にあったものを当寺に移建した。

塔の裏にある三角形の石群は、さる落ち武者の霊を弔ったものと言われている。(ご住職談)

(加古川市史第7巻)

塔の裏にある三角形の石群は、さる落ち武者の霊を弔ったものと言われている。(ご住職談)


当麻(たいま)曼荼羅図

鎌倉時代末期/元応元年(1319)

タテ122.6㎝ヨコ118.8㎝絹本著色

~兵庫県重要文化財~

奈良県当麻寺の図を基本とする。下縁部の九品阿弥陀来迎の姿が、数少ない座像形式に描かれている。旧軸木内に残る銘記から、描かれた年代と京都に住む大絵師・法眼隆尊が描いたという由緒が記されている。絹地に内陣諸尊が金色で描かれた、鎌倉時代の特徴を有する優品である。なお、正徳5年(1715)に補修された記録がある。(龍泉寺蔵書より)


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