茜はまたまた驚いて、ちょっと使っただけの一の糸をなぜ捨てるのか?と徳兵衛に訊ねる。
「一の糸は、いじったらすぐに替えないかんのや。三の糸が切れたら二の糸で代わって弾くことが出来る。二の糸が切れても一の糸で二の音を出せる。そやけども、一の糸が切れた時には三味線はその場で
舌を噛んで死ななならんのや…。」
(有吉佐和子「一の糸」より)
当地加古川の寺家町に生を受け、江戸時代から明治を一気に駆けぬけて駆け抜けてきた稀代の三味線弾き、豊澤團平。妻千賀との夫婦愛を全うし、自らの芸道を極め、日本のベートーベンとまで称された彼は、間違いなく加古川が生んだ全国に誇るべき偉大な文化人の一人であろう。
ここに、その彼が歩んだ足跡の一端を紐解いてみたいと考える。
千賀と團平…その夫婦愛
千賀は、京都の染物屋の娘であったが、さる大名の側室になったあと、祇園で茶屋を営んでいた時、團平と知り合い、次第に團平に感化され義太夫の真価、面白さに目覚めていき周囲の反対を押し切って後妻に入った。
その後、千賀の行いが小賢しく思えるようになった團平は、一時離婚を考えたが、“壷坂霊験記”を創作した千賀の文才とその出来栄えにおどろき、團平は、その場で作曲するとともに、改めて彼女に愛情を覚え、
ともに死ぬまで、その夫婦愛を全うした。ちなみに前頁に記した「一の糸」のくだりは、千賀と團平をモデルとして有吉佐和子が書き下ろした小説の一節である。
編集後記
編集者は、更に詳細な彼の足跡を把握したいと考え、常徳寺さんを訪問したが、一番詳しいとされる先代の住職が最近ご逝去され、この件に就いては、家人も詳しい話を聞いていない…との由。
また、加古家は遠隔にお住まいであり、今、連絡は取れない、とのことであった…。
團平については、広く伝えられているとは言い難いうえに、その史実は徐々に風化しつつあり、一抹の寂しさを感じながら寺を後にした…。
ただ一つだけ気になったことがある。それは、墓所に千賀の名が彫られていなかったことであるが、今はその訳を知るよすがもない…。
合掌
引用並びに参考文献
●日本人名大辞典
●史跡てくてく・5(三浦孝一氏)
●郷土の石彫・114(岡田功氏)
●「松岡正剛の千夜千冊“一の糸”
有吉佐和子」より
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