私たちが幼いころ、親世代は、それを“活動写真”と呼んでいた。
昭和30年から40年代、私たち団塊の世代に夢と憧れを与えてくれたのは、“娯楽の殿堂”「映画館」であった。昭和21年から昭和40年代前半にかけて、加古川には6館の映画館があった。
第1新興会館と第2新興会館(篠原町のビル内)、旭クラブ(本町)、大劇(寺家町)、加古川劇場(西本町)、日映(篠原町)である。それぞれ扱う作品の系統に特徴があったが、最盛期にはどの「自転車預かり場」も満杯であった。
(昭和30年代の自転車預かり賃は、1台10円と記憶している。)ただ、昭和40年前半から普及し始めたテレビの登場により、全国的に徐々に衰退がはじまり、昭和の終焉前にはすでに全館が閉館するに至った。
平成13年(2001)にマ「ワーナーイカルシネマズ加古川」が開館するまで、人口20数万の街に映画館のない時代が続いたのである。
これは、代表的な映画館について、その沿革(歴史)の一端をご紹介するガイド書である。読者の皆さんには、当時スクリーンを通して自身が憧れたスターや映画のタイトル、印象的な場面などを想い出していただき、ひとときであっても、若かりし頃の情熱を蘇らせていただければ幸いに存じております。
下の写真には、昭和初期と注記されている。「忠臣蔵」の興行で、大々的に宣伝されていることが伺える。
自転車の数からみても、館内が満員で立ち見客も出ていたかもしれない。館内には売店があり、休憩時には売り子が客席を回っていたそうだ。
年代から想像して、この「忠臣蔵」は、昭和7年(1932)12月1日公開の映画と推察される。
よく見ると、観客らしき人の服装も冬衣装である。
主演の内蔵助役には、阪東寿三郎。
若き市川右太衛門(当時25歳)も浪士役として出演している。
忠臣蔵としては、初のトーキー映画であった。
このことも大入り満員の一因であろうか‥。
松竹オールキャスト、制作日数は80日。制作費用8万円(当時の貨幣価値)。第1部と第2部に分かれ、全上映時間は、3時間半であったと記録されている。
本映画は、キネマ旬報ベストテン第3位に輝いた。
昔は、世の中が不景気な時には「忠臣蔵」の映画を作るに限る、と言われていたことを記憶している。
昭和7年といえば、3年前に起こった世界恐慌の傷がまだ癒えていない、決して好況とは言えない年でもあった。また、上海事変が勃発した暗い年でもあった。
旭倶楽部の沿革
昭和年28年当時の旭倶楽部
加古川市加古川町木村に住む岡田末吉氏が、昭和2年4月4日に許可を得て加古川町本町366番地に建設した「活動写真館」である。
館名は「旭倶樂部」。翌3年の1月1日(元旦)に開館し、U字型の1階・2階客席を有した。
作品の系統としては、大映系の邦画と洋画を上映したとされる。
正面入って右奥には売店があり、左奥には事務所があった。また正面入り口の左手前には自転車預かり所があった。
数年前、当町に住む長老の一人より、筆者に寄贈された90年以上前に記された町民間の手紙のなかに、旭倶楽部に関して、次のような文章が遺されている。貴重な時代証言の一つと考えるので、ここに紹介する。
「‥旭倶楽部は、以前は「加古川館」という芝居小屋でした。芝居を観に連れて行ってもらった記憶があります。火事で焼けてなくなりました。大河内伝次郎はそこで知りました。この俳優の出るものは大抵観ています。国定忠治、大石良雄も私が観たのはこの人でした。坂東妻三郎や片岡千恵蔵もここで知りました。」
‥昭和30年~40年代にかけて黄金期を築いた映画興行も、テレビの登場によって徐々に衰退の一途を辿ることになる。
旭倶楽部においてもその例外ではなかった。
筆者の記憶では閉館はおそらく昭和48年~50年初頭ではなかったかと思われる。上の写真は、旭倶楽部跡地である。
現在は「本町公園」となっている。冬枯れの木立を見ていると、祭りのあとといった感じさえ受ける。かって、この場所へ胸躍らせてやってきた人々のにぎわう姿が夢のように思われる‥。
引用文献・写真アルバム集等
※1「兵庫県の映画館・消えた映画館の記憶」※2‥「写真アルバム加古川・高砂の昭和」※3‥「加古川・高砂今昔写真集」~2006年発行~俳優、ポスター写真はWikipediaより引用
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