「加古川小学校」の前身は、検番筋に存在した!
(1) 学制が公布(明治5年)された6年後(明治11年)、寺家町144番地に「麑げい松しょう小学校」が誕生した。(粟津・北在家・平野・加古川町・木村・稲屋・友沢・中津・備後各地区を包括)
明治40年に廃校になるまで、29年間存続した。
(2) 明治40年12月2日に、「加古川町立加古川尋常小学校」として新校舎落成。(現加古川小学校北側に隣接する「金剛寺浦公園」に落成した。)
ーーー
明治33年生まれのK氏の話…
私は明治40年入学で、当時は、鳩里、加古川が一緒で、1~2学期を過ごしました。そして、学校が新設されて移転のとき、造園のため大きな石を二個運びました。まだ小さい頃だったので、かなり重たかったことを記憶しています…。
ーーー
(3) 昭和3年9月に、現在地(現加古川小学校)に竣工。大正12生まれの人が2学期より登校。(そのころにはすでに東側に隣接して「県立加古川高等女学校」が存在した。)
(4) 昭和4年4月に「加古川市立加古川第1尋常高等小学校」と改称。
(5) 昭和16年4月に「加古川国民学校」と改称。
(6) 昭和22年4月に鳩里小学校を合併して「加古川小学校」と改称、現在に至る。
~以上、加古川小学校蔵書「麑松」より引用~
(7) 最近まで、検番筋で商店を営んでおられた店主で、このあたりには一番詳しいと言われている長老(大正12年生まれで90歳・現在でも年配の人には、「お兄ちゃん」と呼ばれている。以下「S氏」という。)宅をお伺いし、小学校に関して拝聴したお話は概ね以下のとおりである。
検番筋に面した(144番地の)家屋はすべて長屋で、その裏(東側)には、南北に中庭があった。その裏側にはさらに南北に長屋があって、そこより東側に一段高く造成された部分に学校がありました。
いまでも、このあたりに住む年配の人は、ここを「学校跡」と俗称で呼んでいますよ…。
S氏が若かりし頃のお話(昭和初年~30年までのお話と思われる。)
(1)昭和の初め、(住宅地図が示すように)「西洋亭」、「静の家」、「花月」、「ライオン・バー、「相生亭」などの料亭やお茶屋が目白押しで加古川唯一の繁華街でした。
(2)しかしながら検番筋で“板場”を抱える料亭は、「相生亭」しかなく、各店は、ここに料理を注文して配膳を依頼していました。(「相生亭」には、常時4~5人の板場がいた。)
(3)ご自身の友人も、“懐が暖かく”なったら、検番筋に遊びに来ていた。また兵隊さんも、よく遊びに来ていたことを記憶しています。
(4)現在の“みどり旅館”(うなぎ屋さん)あたりに射的場や、「検番」があった。さらに、その東側駐車場の手前あたりに、「置屋おきや」(芸妓養成所・住み込み)があり、射的場の北側には「髪結い屋」がありました。
(5)“みどり”の南側(現在の「串かつ・三福」さん辺り)には銀行があったが、なぜか、
その銀行の金庫は、屋外にあったことを奇異に感じていたことを記憶しています。
また、髪結いさんの南側に、道に面して検番があったらしい…。これが壊れて、空き地に掘
っ立て小屋の射的場があり、その敷地の南側奥に検番があった。
(6)芸妓は、一番多い時代で100人くらいは、いた。~昭和30年当時には、2~3人までに
減少してしまった。お茶屋さんも、昭和37、8年くらいまではあった。~
(7)芸妓は、みんな教育が行き届いていて、仕事がハネて、お茶屋から「置屋」に帰る道すがら、検番に必ず立ち寄って、「今帰りです~。」と、あいさつの言葉を欠かしませんでした。
(8)記憶に残っている、面白い話としては…
ある日、自宅から何気なしにお茶屋に目を向けたとき、学校の先生がどんちゃん騒ぎをし
ており、たまたまその先生と目が合ってしまった。先生は気まずそうな顔をしていたし、
こっちも恥ずかしかった。その日以来この町で先生を見かけることはありませんでした。(笑)
お食事処「山田」さんでのお話
7月26日夕方、客として山田さん宅の暖簾をくぐり、ご主人や居合わせたお客にお話を伺った。それによると、昔の検番や置屋の位置関係は下記の通りで(現在の家屋、お店を基準にする。)S氏のお話とほぼ符号した。
(1) 戦後は、現在の「山田」宅が検番でした。(山田さんは営業開始より丸41年になる。)
(2) 「西洋亭」は現・山田宅東側に隣接。
(3) 「置屋」は、その東隣の、現在の“いく世”さんの位置にありました。
~翌日、“いく世”のおかみさんにお聞きしたら、「そのとおりで、昔『石山いしやま』という置屋がここにあったと聞いていますよ。」とのご返事をいただいた。~
(4) 現在の「みどり」さん北側に隣接して、「射的場」がありました。
(5) お店に来ていた客と「学校跡地」について話していたところ、現場を見に行こう、ということになり、“段違い”を探したところ、高松商店と、その東隣「寺家町駐車場」の接点より東側が「学校跡」であることが判明した。(7/26判明)
~S氏の言の通り20㎝程度土地が東側が高く、現在でも明らかに段違いになっている。~
(6) 戦時中、神野に軍隊があって、ここからも兵隊さんがよく遊びに来ていました。
(7) “花菱亭”で芸妓さんが踊りの練習をしていました。
(8) お茶屋とは、料理も出し、芸妓も呼ぶが、板場は雇っていなかったため、料理は料亭から取り寄せていた。一方、料亭は板場もおき、お茶屋にも料理を配膳していた。
検番筋では、食事処のほとんどがお茶屋でした。
“いく世さん”で伺ったお話
7月29日夜に改めて“いく世”さんを伺った。今のお店の歴史は57年。(S31-12-14開店)
店)おかみさんとグラスを交わしながらお聞きした昔話…その口調は、古き良き時代を懐かしみ、時代を愛おしむかのように、一元客の私にも、熱っぽく語ってくれた。
(1) “西洋亭”の西隣に長屋があって、そこに芸妓さんがたくさん住んでいました。
(2) “播水園”(昭和48年当時現存・清水茶舗東裏)について、おかみさんが聞き伝えの話として、“播水園”(店主は、安藤ちんどう氏)の客筋は、造り酒屋の旦那さんや、銀行のえらいさんや、
土建屋さん等が多く、三菱製紙や近江絹糸の平社員も会社のツケでよく来ていました。
① 「さだの山」や「とちにしき」というお相撲さんも来ていたが、酒に酔って居眠りするとき、いつも敷布団を2枚並べて寝ていた…。
② 昭和30年代からの東映の名優、山形勲さんが来られたが、頭が低く、とても紳士で立派な、男らしい俳優さんでした…。
その他の思い出話
① “西洋亭”の主人は、たしか、栄二さんという人でした。釜飯とステーキが名物でした。
② 本資料中“繁の家”での写真の中で一番左の人は「かず一」さんだったと記憶しています。
以下「新かこがわ事典」より引用。
(1)「検番」とは…
まず、料理屋・待合・芸妓屋の3業が集まって営業している地域を一般的に「三業地」と
俗称しており、その営業には公安委員会(戦前までは警察署)の許可が必要であることと、
3者が合流して三業組合(同業組合の一種)を組織していたことから、そのように称してい
た。その組合の中で、芸妓のあっせんや、料金決済などの事務処理をする必要が生じ、こ
の地域内に「検番」を置くことになった。
(2)加古川唯一の賑わいを誇った検番筋も、昭和30年過ぎからは急激に寂れはじめ、また昭和50年代に入ってからは、大型スーパーなどの進出で、大規模な駐車場を持たない検番筋は
年を追うごとに客足が遠のき、現在では往年の賑わいを知る人も少なくなり、残念な現状で
ある。なお、蛇足ながら、高砂市阿弥陀町の鹿島神社には、昔、加古川をはじめ、播州各地から水商売(特に芸者さん)の方々が、毎月1日にお参りされていた、一願成就の神様であっ
たが、今は、入試のために多くの学生が押しかけて大繁盛しており、時代の変遷を感じる次
第である…。
備考:
(1)「麑松(げいしょう)」のいわれ…。
“麑(げい)の松”、または“鹿児の松”と書き、常住寺にあった松のことをいう。播州名所巡覧図絵にもある巨木で、一枝は20メートル離れた旧山陽道(西国街道)にも及んでいた。
洪水があって七堂伽藍は流出しても、この松だけは残り「本尊」や「脇立」なども、この枝
に残ったことから“影向の松”ともいわれた。
(2)昭和4年発行“大日本職業別明細”の原本(カラーコピー)は、『繁の家』さんより
戴いた。
(3)新加古川事典:編者・発行者:新かこがわ事典編集委員会
制作・発売者:神戸新聞総合出版センター
(4)取材にご協力いただいた方々
①清水茶舗様
②ジュエリー井上様
③食事処山田様
④繁の家様
⑤いく世様
⑥加古川市防災街区整備事業事務局)西尾様
(5)掲載した文章と写真
清水様、山田様、並びに、いく世様には、本記載内容・写真について、
掲載ご了解済。
以上
0コメント