三つの「間」が失われている近年の子供達

近年の子供たちの遊びには、三つの「間」が失われているという。

即ち「時間」「空間」「仲間」である…。

愛する我が郷土・本町二丁目の近世を訪ねて


激動の明治、大正、昭和を懸命に生き抜いた先人の確かな足どり、

そして貧しさの中でも、天真爛漫で近所の仲間たちと遊びに熱中した子供達。

遥かに遠いそんな煌めきの日々に浪漫飛行してみませんか?

私たちがどこかに起き忘れた大切なものを再発見するために。


次の文章は平成6年に、2丁目在住の方が、友人である同町の方に宛てた手紙の全文です。

さる方より入手しました。約90年前(昭和初年当時)の当町の様子が記載されており、貴重な文 書と考えます。是非、当時の街並みを想像して戴ければうれしく思います...



『本町は、昔、「仲町」と言っていました。


70年前の事です。高谷さんの 前の国道が、そのころに出来、新道と呼んでいました。

田口さんも、牛尾さん も、そのころ、ぼちぼち建ち始めました。

柴田さんの自転車屋や、冨田さんの 本屋は、まだ建っていませんでした。

あなた様のお家からは、称名寺が見えました。

もちろん、山田さんや大島さん宅も建っていませんで した。東郷さんとか、須賀さんの家とが、同じころに建ち始めまし た。

仲埜さんの隣の家は、今、北野さんの娘さんが住んでいますが、 仲埜さんと2軒続きでした

そこに、仲川さんの親父さんの県会議 員が住んでいました。その前には、キリスト教会があり、高野とい う牧師さんでした。

日曜ごとに私たちも呼ばれて行きました。 クリスマスには、たくさんお菓子がもらえて、嬉しかったですよ。

その高野さんは、小学校の東北角に引っ越しされました。

その辺り は急に過密化してきました。

その辺の広場は私たちの良い遊び 場でした。陣取りをしたり、コマ回しをしたり、ラムネの玉をした り、パッチンをしたり、いろいろして大人になりました。


ごく懐かしいところです。須賀さんの並びの裏には、3尺ほどの溝がありました。これは、称名寺に流れていく 用水路でした。今はコンクリートで蓋がされていますが、地番は確か、国の所有になっているはずです。


私たちの裏にも、用水路がありました。城さんの家は、そのころはまだ水田でした。秋の取入れをするのが よく見えたものです。良く変われば変わるものです。

その時分の人も、殆ど亡くなりました。山本の禛一さんく らいではないですか?

少し後の山脇さんもそのころの人ですね。

妻鹿さんは、少し離れたところのぼんぼんで した。

玉田さんの裏の川が、改修できていなかったので、夏、大川が増水すると、この用水路も氾濫し私の家は しばしば床下まで浸水することがありました。

こんなことを思い出していると本当に懐かしいものです。

旭クラ ブは、加古川館という芝居小屋でした。芝居を観に連れて行ってもらった記憶があります。火事で焼けてなくな りました。

大川の堤防まで避難し、夜を明かしました。のちに、「旭クラブ」となって、映画館となりました。

大河内伝次郎は、そのとき知りました。坂東妻三郎や、片岡千恵蔵も、ここで知りました。

~以上原文のまま~

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