2020.06.27 09:08加古川城主、糟谷武則:その栄枯衰退の歴史 糟谷氏の家紋:三盛り左三つ巴 糟谷武則は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名で12代目加古川城主。生誕や死没年月は不明。糟谷氏は、播磨加古川城を拠点に、鎌倉時代から続く武家で、武則は、三木・別所氏の家臣であった糟谷忠安の次男である。有名な「加古川評定」後の秀吉による三木城攻めでは、兄・朝正と袂を分かち、羽柴軍に就いた。後の“賤ケ岳の合戦”では、「七本槍」の一人として武功を立てて一万二千石の大名に出世した。以下、武則と加古川城…そのかかわりについてのあらましを記述してみる。
2020.06.27 08:52風化して久しい“海城”高砂之城。 謎に満ちた歴史秘話を追ってみる。高砂城を攻略した秀吉軍に完勝した毛利水軍であったが、不可解にも進軍もせず、また高砂に留まることもなく帰国の途に就いた…。
2020.06.24 11:19【加古川銀行】境界石が語る石造西洋建築本町2丁目の表通り…高砂コンピューターさん前の東角に郵便ポストがあるが、その足元に、よほど注意して見ないと気付かない“郵政”と彫られた境界石が、遠慮がちにひっそりとたたずんでいる。
2020.06.18 00:59日本初の鉄道開設と、西日本鉄道網の整備開通1. 日本初の鉄道開設(開業) 日本の鉄道は明治5年9月12日(1872年10月14日)に、新橋駅-横浜駅間で正式開業した。ただし、実際にはその数か月前から品川駅-横浜駅間で仮営業が行われていた。鉄道は大評判となり、開業翌年には大幅な利益を計上したが、運賃収入の大半は旅客収入であった。 ちなみに、当時、新橋駅~横浜駅間29kmを53分で走ったと記録されている。(参考:加古川~須磨までが、31km)
2020.06.17 01:05勉学と商工の発展を祈願するお社 栗津神社加古川町栗津 栗津神社 当神社の『権禰宜(ごんねぎ)』を務める田中氏の言葉を思い浮かべながら、ペダルは、粟津神社へと向かう。ススキの穂先に季節感を感じるにはまだ早いが、今夜は中秋の名月…。見上げる青空のふもと、その先に、涼風にたなびく“クスノキの杜”が目に入る。目指す『粟津(あわづ)神社』である。境内に入ると、数組の母子が、黄色い歓声を上げ、神社内に飛び交うアキアカネを追いながらゆったりとした昼下がりの時間を楽しんでいた…。
2020.06.10 12:29三つの「間」が失われている近年の子供達近年の子供たちの遊びには、三つの「間」が失われているという。即ち「時間」「空間」「仲間」である…。 愛する我が郷土・本町二丁目の近世を訪ねて激動の明治、大正、昭和を懸命に生き抜いた先人の確かな足どり、そして貧しさの中でも、天真爛漫で近所の仲間たちと遊びに熱中した子供達。遥かに遠いそんな煌めきの日々に浪漫飛行してみませんか?私たちがどこかに起き忘れた大切なものを再発見するために。
2020.06.09 13:31賀古川宿 繁栄と終焉の歴史ヒストリア五百年余りに亘り春秋を織り成した宿駅 弘安2年(1322)3月12日、隠岐の島に流される後醍醐天皇が『賀古川宿』に泊まる。(常住寺または播磨守護所と思われる。)
2020.06.07 08:21加古川の古き良き江戸期から大正期のレトロな家々西国ロマンチック街道 賀古川宿現存する古き良き時代の面影を楽しみながら、ゆったりと散策してみませんか? 1,700年台の前半(寛永期)に、最も華やいだ宿場町があった。寺家村、加古川村(寺家町・本町)合わせて450軒もの町屋を誇った『賀古川宿』であるが、その最盛期から300年の光陰が流れた今、それを偲ぶ“よすが”(てがかり)はない。ただ、現存する江戸後期~昭和初期に建てられたといわれる古民家から、多少なりとも往時の雰囲気を想像することは可能である。これは、歴史ロマンを愛するあなたの為に私が取材、作成した資料…。本ガイド書を手に、街道散策するのも、また、乙なものかもしれませんね。《1》大村株式会社(溝の口)
2020.06.07 07:47昔のこども達。貧しいながらに毎日が輝いていた。 本町二丁目 長老たちの少年時代(開戦当時前後)去る8月の或る日、「ひだまり会館」で当町の長老三名の方(男性)にいろいろお話を伺う機会を得た。その概要は以下の通り。 『当時は、西谷さんの西隣が空き地で、野球などの遊びをよくしていた。また、そこでは畑も作っておりました。また世話田(せわだ・川)でお母さんたちが毎日洗濯をしておりました。僕たちは川の中で魚とりや堰止め(じゃっかい)して魚も取っていた。結構、魚も多かったので、みんな必死で獲っていましたね。戦争の招集令状(赤紙)がきた出征兵士のお宅には、出征後、子供たちも勤労奉仕を行いました。風呂の水を入れたり、「かまど」でご飯焚きもしました。子供たちのたまり場は、ニッケの煉瓦塀沿いの道で、パッチンや、パチンコ...
2020.06.07 07:28野口城落城ノ記三木城攻略の緒戦において大敗した秀吉軍は支城から順次攻め落とし、三木城を無援の孤城とすることに戦略を変更した…。 天正六年二月の毛利攻めの軍議(加古川評定)で、別所側が秀吉に反旗を翻したことが発端となり、同年三月二十九日、秀吉は、大軍を率いて三木城に攻寄った。「播州太平記」によると、その数五千余騎とある。陣は、鳥町(現三木市鳥町)に構えて、大軍で城を取り囲んだ。(三十ヶ所)一方、迎え撃つ播磨勢は、支城である野口城、神吉城、志方城に援軍の派遣を依頼し、四月四日には総勢千人にのぼる援軍が終結。翌日の五日、ひそかに忍び寄り決死の夜襲を掛けた。夜陰に紛れての急襲により、秀吉勢は瞬く間に総崩れとなり、更には、合図を受けた三木城からは約千人が討って出たため、秀吉...
2020.06.06 08:29御着城の戦い(姫路市) 中ニモ原小五郎ハ名誉ノ射手ニテ羽柴の瓢箪馬印ニ當ル矢ヲ秀吉取ラセ見給フニ原小五郎と姓名ヲ書付たる矢多数アリ寄手ノ人々其弓勢ヲ誉メニケリ…。(播磨鑑)御国野(みくにの)町御着春まだ浅き二月ではあったが、木漏れ日が暖かい昼下がり、妻と私は御着城址に立っていた。北側にそびえるのは斉藤山。真南には、秀吉が陣を張ったと言われる火山(樋山)を眺むことが出来る。
2020.06.06 08:12『志方城』その成立と崩壊のミステリー『あなおもしろ、鹿田と名付けまし』志方の地名については、神功皇后が三韓征伐に行かれた時にこの地に上陸され、今の宮山に登られ、たくさんの野鹿が遊び戯れているのをご覧になり、『あなおもしろ、鹿田と名付けまし』と賞嘆されたのに因んで鹿田と称するようになった。後に『志方』に改められたものという。これは、播磨風土記に賀古の郡(今の加古郡)の地名について、「昔、応仁天皇がきく丘の頂上に立って『このくには、丘と原野といと広くして、この丘(今の日岡)を見るに鹿児の如し』と仰ったので賀古の郡と言われるようになった」というのを始めとし、当時は、播磨一円にのみならず全国的に鹿が多数生息していたので、鹿に因んだ地名が多いのである。この記事のあと、郡誌には、『志来りし方』と、や...