2020.12.31 07:30平野庸脩 四十数年をかけて、播州をくまなく調査し、地詩『播磨鑑』を大成した、加古川が生んだ稀代の偉人 「播磨鑑」は、江戸時代に平野庸脩が著した播磨国の一大地詩である。庸脩は播磨国印南郡平津村(現在の加古川市米田町平津)の人で、名は「庸脩」(ヨウシュウまたは、ツネナガ)といい、通称「才一郎」、「才市郎」、また「佐一郎」ともある。「歴暢」また、「露竹」、「風帆堂」と称した。父母や彼自身の生没年は詳らかではないが、医を業としながら、他の学問も好み、数学、暦術(太陽・月・星などの動きを測って、暦をつくる方法)を学び、旧史を好み、詩歌も詠じた。四十数年をかけて、播州をくまなく調査し、「播磨鑑」を大成し、宝暦12年(1762)には、姫路藩主・酒井忠恭に、これを献上した。
2020.12.30 07:04腹切り地蔵志方町山中地区の伝説四百五十年を経た今もなお、お参りが絶えないと云われる伝説のお地蔵様‥。三木城落城にまつわる、一武士の悲劇に心を寄せ続けてきた村人の慈悲心が現代においても連綿と引き継がれていることに驚きを禁じ得ない‥。
2020.12.29 04:28加古川町友沢 壽願寺(じゅがんじ) フジバカマ…その乾燥葉の、桜餅にも似た香しき匂いに誘われ優美に舞い降りる“アサギマダラ”錦秋の友沢には、そんな風情を醸し出す古刹があります。
2020.12.28 02:53本町・唐人、薬師堂 因縁ニテ此処迄上リシャ委細ヲ知ル者ナシまことに、そのオランダ人いかなる因縁で この地まで到来したか、委細知る者はなし。 七百五十年…悠久の歴史を刻んだ『唐人(とうじん)薬師堂』も今は昔。(平成18年6月解体)しかるに地域住民に慕われ続けた“お薬師さん”への熱き信仰心は、いま『本町地蔵尊』に形を変え、脈々と次世代に引き継がれている…。
2020.12.11 05:51重巡洋艦『加古』その栄光と殉難の歴史3重巡洋艦『加古』その栄光と殉難の歴史1の続きです。重巡洋艦「衣笠」乗組員が目の当たりに見た「加古」の最期第一次ソロモン海戦において、「加古」とともに戦闘に加わった、重巡洋艦「衣笠」。その艦に、当時17歳、三等水兵で、「伝令」を主務とした少年兵がいた。大正14年生まれで、94歳のご高齢でありながらも、矍鑠とされ、現在も「兵庫県海交会事務局長」をされておられる、丸 利郎氏である。(下は、『衣笠』乗組員当時、17歳当時)
2020.12.10 05:41重巡洋艦『加古』その栄光と殉難の歴史2前回の続きです。「加古」元信号員による沈没時体験談加古乗組員で、信号員であった石上民夫さんは、ご高齢また、体調不良等で、残念ながら慰霊祭にはご出席戴けなかった。そこで、事前に神戸新聞社・記者が、氏のお住まいである洲本市に出向き、沈没当時の状況を取材した。以下、(4年前の)神戸新聞掲載記事(2015-8-7付け)より、氏の述懐を抜粋して紹介する。『前夜の圧倒的な戦果に、“やった、やった!”と沸いていたのが一転して、“ドーン・ドーン”という轟音が鳴りひびき、一瞬にして海中に投げ込まれた。覚悟はしていたが、やはり命は惜しかった。みんな浮いている樽などにつかまり、死ぬ思いで漂っていた。重度のやけどを負ったまま、サメに襲われ、命を落とす戦友もいた。私は、漂流して...
2020.12.09 05:41重巡洋艦『加古』その栄光と殉難の歴史1 加古川ゆかりの帝国海軍軍艦 遙か南の洋上より、艦内神社を通じて、加古川と日岡神社に思いを馳せた乗組員、そして全ての戦没者に鎮魂の誠を捧げる。