2021.04.26 02:02姫路歩兵第三十九聯隊 第八部このガイド書にピリオドを打つ壮烈にして悲壮な戦いとして、「サラクサク峠」での戦闘の要旨を紹介してみたいと考える。聯隊の歴史を閉じることになった「サラクサク峠」での邀撃(「迎撃」の意)物量を誇り、最新鋭の火力、戦車、戦闘機を繰り出しても、なお米軍は、マニラ北方拠点であるサラクサクの堅陣は抜けなかった。「わが軍の前進は、わずかインチ単位に過ぎなかった。」と、米軍の師団長は嘆いて部下を激励した。それほどまでに、我が聯隊はひもじさに耐えながら、乏しい火力をもって、気力を振り絞って迎え撃った。我が軍は、無数の横穴陣地、タコツボから一歩も退かなかった。夜になると切り込みを繰り返し、昼には、米軍の火炎放射器が横穴を焼き尽くす。その繰り返しが四か月も続いた。特に、「天...
2021.04.26 01:44姫路歩兵第三十九聯隊 第七部徐州会戦 大閘(たいこう)の戦闘攻撃部隊である第1大隊は、5月15日午前9時ごろ「大閘」に向かい前進した。約300の敵は、我が右翼第3中隊を包囲するように攻勢に転じ、第2中隊もまた優勢な敵の攻撃を受け、ともに苦境に陥った。大大砲小隊・聯隊砲中隊が追及して、「大閘」に対し、午後8時30分、敵前200メートルにおいて砲兵の支援射撃を行い、一挙突撃、悪戦苦闘の上、午後9時40分、完全に「大閘」部落を占領した。敵は微山湖岸の各部落に一連の強固な陣地を設けて警戒部隊を配置し「大閘」は後方主力抵抗線であったため、敵はしばしば攻勢に出た。この戦闘において、第3中隊長伊藤中尉は、胸部貫通の銃弾を浴びて戦死した。また、第2中隊長代理・山田少尉は重傷を負った。わが聯隊の損...
2021.04.26 01:30姫路歩兵第三十九聯隊 第六部支那事変勃発昭和12年7月7日、情勢の緊迫していた北支に、「盧溝橋事件」が起きた。この事件の解決のために、当時の軍中央部には、積極解決派、と慎重不拡大派の二潮流があったが、全般的には政府の方針通り、拡大抑止の方策がとられた。しかし、関東軍は、北支・外蒙工作の一挙解決を図ろうとして、この事件に積極的に関与しようとした。このようにして、軍中央部は、背面における対ソ連考慮もあって、作戦の範囲を北支に限定することとし、この事変を「北支事変」と命名した。[付記]盧溝橋事件の発端日本北支駐屯軍は、日常の行動を慎重にし、日中間に事を起こさぬよう配慮しつつ、その任務達成に関する教仮設敵訓練、特に、夜間訓練に努力していた。第8中隊は、7月7日午後7時30分から夜間演習を...
2021.04.14 05:59姫路歩兵第三十九聯隊 第五部満州事変の勃発 国際連盟脱退1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、3年前の「張作霖爆殺事件」の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している。関東軍はこれを「張学良」の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。これがいわゆる「柳条湖(溝)事件」である。
2021.01.19 01:10父が他界しました。五郎のロマンチック歴史街道を読んでいてくれている皆さん、いつもありがとうございます。実はこのブログは海外に住む娘の紀子が、父・五郎の歴史資料をもとにアップデートしています。父は2017年の4月に膵臓癌摘出手術を受け、その後2018年5月腹膜に転移再発、また2020年10月警部骨部背中の骨に転移し、抗がん剤や放射線治療を受けてきました。発見当初はステージ1で、殆ど治る、との見解を受けたそうです。ですが手術時に浸潤している事がわかり、ステージ3と言われました。それ以来入退院を繰り返し、抗がん剤の副作用で意識不明になったり、東京で新しい病院にチャレンジしたりと、長く辛く続いた闘病生活でした。それも終止符を打つ事となり2021年1月18日に永眠致しました。最期...
2021.01.18 10:34姫路歩兵第三十九聯隊 第四部沙河会戦での「三塊石山」大夜襲沙河会戦での「三塊石山」大夜襲の決行~「血染めの軍旗」由縁の戦い~明治37年9月下旬ころから、ロシア軍の行動は、逐次活気を呈してきた。特に、我が第1軍の右翼方面に対する動きが活発化し、9月17日には、すでにレンネンカンプ騎兵団と、サムソノフ支隊は、本渓湖に来襲し、我が梅沢旅団との交戦が始まった。満州軍総司令部は、いよいよロシア軍が迫ってくると判断し、10月10日各軍参謀長を集め、敵の機先を制して10日を期して全軍攻勢を開始するよう命じた。39聯隊は、10月10日早朝、師団の前進部隊として玉門子北方高地付近に進出し、次いで、「三塊石山」南方の高地を占領して、師団主力の進出を援護した。
2021.01.04 05:07姫路歩兵第三十九聯隊 第3部日露戦争勃発と遼陽会戦日露戦争勃発と第39聯隊日露戦争は、当時としてはまさに古今未曽有の大戦争であった。前述の沙河会戦当時、米国の有名なトリビューン紙は、「この会戦は、その兵力の莫大なる点において、おそらく世界大戦史上、最大の会戦である。」と評している。当時、人口が四千五百万人という東洋の小国日本が、人口1億5千万人という西洋の大国、ロシアを相手にして列強も驚くほどの戦争を、なぜ起こしたのか、それは、ロシアの南下政策の実行、すなわち、日本に対する脅威に歯止めをかけざるを得なくなった、という、止むに止まれぬ事情があったからである。日ロ交渉も行き詰まりをみせた。日本の希望は、清韓両国の独立を互いに保証して、さらに満州においては、ロシアの優位性を、韓国におい...
2021.01.03 05:07姫路歩兵第三十九聯隊 第二部創設と軍旗授与第三十九聯隊の創設[軍旗授与]明治29年7月、39聯隊の位置は、姫路と定められた。この年の11月、姫路城三の丸内の歩兵第10聯隊の兵営内に歩兵第39聯隊と第1大隊本部が開設された。徴兵対象区は、神戸市、美濃郡、加古郡、明石郡、多可郡、加西郡、印南郡等1市8郡であった。軍旗の拝受は、明治31年3月24日、明治天皇より軍旗が授与された。(姫路は、遠隔地の為、直接ではなく、統率系統により授与された。)
2021.01.02 04:49姫路歩兵第三十九聯隊 第一部 百二十一年の春秋を経た今も尚英霊とともに生き続ける“血染めの軍旗”はじめに歩兵第39聯隊は、明治31年姫路)白鷺城下に創設されて以来、ほぼ半世紀にわたって、日露戦争、満州事変、支那事変、更には大東亜戦争等、幾多の戦役に従軍、戦功を立て、この間3回にわたり感状を授与された屈指の精鋭部隊であった。特に日露戦争中、奉天近くの沙河の会戦では、三塊石山の夜襲において、安村聯隊長とともに聯隊旗手2名が相次いで戦死し、その鮮血は軍旗を紅色に染め、それ以来「血染めの軍旗」として聯隊将兵の尊崇と団結の象徴となったことである。
2021.01.01 04:09維新列伝 激動の時代を 駆け抜けた風雲児・鳥尾小弥太(とりおこやた)子爵にまで上り詰めた小弥太は、ある日、父の面影を偲ぶため、加古川・光念寺に墓参した。 父は、加古川の菊屋という旅館で志半ばで逝った。父の最後を看取ったという、今は年老いた当時の女将に会い臨終の様子をつまびらかに聞くことが出来た。「あぁ、あなたがご子息でしたか! お父様はお亡くなりになる間際に、このような言葉を遺されました…。“他には何も思い残すことはないが、江戸に残してきた息子のことだけが気がかりじゃ。”と…。」 これを聞いた小弥太は、大粒の涙を流したと言われる。彼の胸に去来した熱き思い、それはなにか…。 おそらく一瞬、彼は小弥太から、幼名の一之助に戻った。そして、幼き日の父の背中のぬくもりを思い出し、自身の死後は、永遠に父の背中で眠りたい、そう思った...
2020.12.31 07:30平野庸脩 四十数年をかけて、播州をくまなく調査し、地詩『播磨鑑』を大成した、加古川が生んだ稀代の偉人 「播磨鑑」は、江戸時代に平野庸脩が著した播磨国の一大地詩である。庸脩は播磨国印南郡平津村(現在の加古川市米田町平津)の人で、名は「庸脩」(ヨウシュウまたは、ツネナガ)といい、通称「才一郎」、「才市郎」、また「佐一郎」ともある。「歴暢」また、「露竹」、「風帆堂」と称した。父母や彼自身の生没年は詳らかではないが、医を業としながら、他の学問も好み、数学、暦術(太陽・月・星などの動きを測って、暦をつくる方法)を学び、旧史を好み、詩歌も詠じた。四十数年をかけて、播州をくまなく調査し、「播磨鑑」を大成し、宝暦12年(1762)には、姫路藩主・酒井忠恭に、これを献上した。
2020.12.30 07:04腹切り地蔵志方町山中地区の伝説四百五十年を経た今もなお、お参りが絶えないと云われる伝説のお地蔵様‥。三木城落城にまつわる、一武士の悲劇に心を寄せ続けてきた村人の慈悲心が現代においても連綿と引き継がれていることに驚きを禁じ得ない‥。